2009年07月03日

形の話。その3

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前回前々回と形に関する話をしましたが、今回ももう少し形の話を続けてみようと思います。


皆さんの中には前回までの話を受けて、

「理屈はよく分かったけど、気を付ける際のもう少し具体的なコツみたいなものは無いの?」

と思った人もいるでしょう。


ホントは

「穴が開く程、手本をよ〜〜〜く見なさい!」

とだけ言って終わりにしたいところなのですが(苦笑)、それではさすがに不親切ですよね(笑)

前々回では入筆の違いについて、前回では字の一部分の違いについて、と話してきましたから、今回はそれらのまとめの意味も込めて、字全体の形の違いについて、1つのヒントとしてその捉え方についての一例を挙げてみたいと思います。


これは私が普段教室で話している事ですから、効果は実証済みですよ(笑)


実はとっても簡単な方法なのですが、字の周りを線で囲ってしまうのです。

これを見て下さい。

『蜀素帖』「語」1-1
       1−1

これは以前にもこの「試食」のカテゴリで扱った事のある米元章の『蜀素帖』からの抜粋で、「語」という字ですが、例えばこれを臨書する際を考えてみましょう。

早速字の周りを線で囲ってみます。

『蜀素帖』「語」1-2
       1−2

するとほら、周りを囲んだ線で出来上がる形が一目瞭然でしょ。

これでもまだピンとこない人はこれでどうでしょう。

『蜀素帖』「語」1-3
       1−3

つまり、この「語」という字を書く前に、今赤い線で表されたこの字の大まかな外形を、ちゃんと確認しておくのです。

そのつもりで見ると、色々な事に気付くはずです。

『蜀素帖』「語」1-4
            1−4

例えば、

「aよりもbの位置の方が高い。つまりはaとbを結ぶ線は右上がりになっている。」

「bよりもcの位置の方が右に出ている。」

「一番低いのはdで、その位置はbを垂直に下りた位置よりもよりも少し左にある。」

「dからfのほぼ中間にあるeは、dとfを結ぶ直線からほんの少しだけ左斜め下に向かって張り出している。その位置はaを垂直に下りた位置よりも少し右にある。」


等々、これらはほんの一例に過ぎませんが、このようにして見てみると、その外形の特徴を客観的に分析する事が出来るでしょう。

形臨するにしても只闇雲に書いてしまうのではなく、このようにして自分に出来得る限り、気付ける限りの形の確認をちゃんとしてから書くのです。

そうすれば、少なくとも次のような外形に書いてしまうような事は起きないはずです。

『蜀素帖』「語」1-5
       1−5

これは青い線で書いた部分の形が1−1〜1−4のものと全く違いますよね。

このような区別と書き分けを、1−1だけを見て書く時にも常に意識しておくのです。


とは言うものの、最初からそれを間違い無く実行するのはなかなか難しいでしょうから、

「1−2のように、字の周りを線で囲ってみましょう。」

という、今回の提案になるわけです。


言うまでもなく、実際の字の形というのは外形だけの話ではありませんが、少なくとも、外形についての視点のズレはこの方法で随分と改善されていくと思いますから、皆さんも一度お試し下さい。


参考までに、同じ『蜀素帖』の中の別の「語」という字を、今回扱った「語」と並べて載せておくので、比較してみて下さい。


ふ〜〜・・・

図を使った真面目な説明というは、やっぱり図の準備が面倒で疲れますねぇ(苦笑)

もう当分やりませんからね〜(笑)

それではまた。

『蜀素帖』「語」1-1   『蜀素帖』「語」2-1

  『蜀素帖』「語」1-2      『蜀素帖』「語」2-2

  『蜀素帖』「語」1-3      『蜀素帖』「語」2-3

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初めてこのブログを読まれた方へ。

いらっしゃいませ。

あれこれ思いつくままに書いているので、書道独特の専門用語や人名などの固有名詞に関しては、その都度解説を付ける事はしていません。

初心者の方や学び始める以前の方には難解な部分も多かったかもしれませんが、お許し下さい。


「一言書いてみたいんだけど、みんなに読まれてしまうコメントに書くのは何だか気が引ける・・・」

という方や、

「何だか下手な事を書いたら説教されそう・・・」

という方、また、通信添削について御質問のある方は、下記のアドレスまで御意見御質問をお送り下さい。

誹謗中傷を目的としたような常識に反するもの以外、お返事させていただきます。

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定期的にアップ出来ているわけではありませんが(正直言ってサボりがちです)、よろしかったらまた覗きにいらして下さい。

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2009年06月25日

形の話。その2

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今回は前回の「入筆の違い」「線の形」に関する話を前提にした上での、「字の形」のお話です。


早速これを見て下さい。
形その1

AからEまでの5種類、どれも上下2本の線ですが、それぞれ上下の長さや左右の位置関係が異なります。

赤い線を引いてみましたので確認して下さい。
形その2

そこで例えば

「Aと同じように書いて下さい。」

と言われたら、皆さんきっとAと同じように上下2本の長さを揃え、左右のズレもないように、つまりはB・C・D・Eのようにはならないように書くはずです。

「Bと同じように」

と言われたら、今度はA・C・D・Eのようには書かないでしょうし、C・D・Eについても「同じように書いて」と言われたらやはり同様でしょう。

何故ならAからEまでの5種類、違いは一目瞭然だからです。

ところが、ですよ(笑)

これまた前回の話と同様に、それら一目瞭然であるはずの違いが、ひとたび字の一部分として目の前に現れた途端、区別が付かなくなってしまうのです。


「え〜?そうかなぁ?」

と思いますか?

それなら次を見て下さい。

『第一種』「ま」1-1


『第一種』「ま」2-1             『第一種』「ま」3-1

2              3

『第一種』「ま」4-1            『第一種』「ま」5-1

4              5


1から5は『高野切第一種』から各種の「ま」を抜粋したものですが、1画目と2画目、つまり横画2本の長さや位置関係を見て下さい。

因みに、もうお気付きでしょうが1が先程のA、2がB、3がC、4がD、5がEに対応しています。

皆さん普段ホントにこれらの違いを認識して書き分けていますか?

怪しいですね〜(笑)

手本は1のようになっているのに、2・3・4・5のように書いてしまったりしてませんか?


「字形を追うので精一杯で」

という常套句を連発する一方で、これらの違いが区別出来ていない人、たくさんいるはずですよ〜(笑)

厳しいようですが、これらの違いが区別出来ていないようでは、字形を追っている事になりませんからね。


この問題は、「ま」という字を、「形」として見ているか、単に「文字」として見ている(読んでいる)か、という意識の違いに起因します。


「ま」を単に文字として見た(読んだ)場合、1から5の「ま」はどれも同じ「ま」という文字でしかありません。(当たり前ですが)

この認識のもとでは、形の違いに対する意識は極めて薄くなり、本人は手本の「ま」を見て書いているつもりでありながら、実際には既に自分の体に染み付いている文字の「ま」を書いているだけ、という事が起こってしまうのです。

つまり

「意識しているつもり、というだけで実は意識出来ていない。」

といった状態です。

これでは仮にどれ程臨書を繰り返してみても意味がありません。

何故なら、1から5の「ま」は文字としては確かに同じ「ま」ですが、形として見たらそれぞれが全くの別物なのですから。


但し、中には

「この話、よく分かってるし、ちゃんと区別しながら手本を見てるよ。だけど実際に書いてみるとその通りに書けないんだもん…」

という人もいるでしょう。


ですがその場合には何の問題もありません。

要は手本を見た時にこれらの違いをちゃんと認識区別出来ているかどうか、つまりはそのような視点を持っているかどうかが問題なのであって、その通りに書けないというのはまた別の話です。

書けないだけの話なら、練習を繰り返していれば、そのうちに書けるようになるのですから。


しかしこれらの違いに気付いてもいないのでは、違いに気を付けて練習しようにも気を付ける事すら出来ません。

だから困るのです。


尤も、前回の話を含めこの手の話というのは、分かっている人にとっては

「何を今更こんな当たり前の事を(苦笑)」

といった類の話ですし、私も普段いちいちこんな事を意識しながら書いているわけでもありません。


先程の場合とはちょうど反対で、

「無意識のうちに意識している。」

といった状態なのですから。


面白いもので、このような視点を持つ為の感覚というのは、意図的に意識して練習を繰り返す事で磨かれていく人もいれば、誰に何を言われなくとも、それこそ無意識のうちに最初から持っている人もいます。(何とも嫌味なようですが、私は後者です。)

ですが、意図的に意識しないと(意識していても)すぐに忘れてしまう、という事なのだとしたら、もっともっと目一杯意識しながら手本を見るような習慣を少しずつでも付けていくより他ありません。

それこそ、「無意識のうちに意識している。」といった状態になるまでです。


と、ここでこんな疑問を持つ人もいるかもしれません。

「そもそもこんな事まで気にしながら見たり書いたりしなきゃいけないの?」


ですがあなたにとっては「こんな事まで」と思うような事でも、実際には極めて極めて基本的な話なんですよ。

そして、今のあなたが「こんな事まで」と思うような事を「当たり前」の事と思えるように、意識しながら練習を繰り返す事、その事自体が、書に於ける「見る目」というものをあなたの中に少しずつ養っていく事になるのです。


「いちいちこんな細かい事まで気にしていられないよ。私は私のやり方でいいや。」

と思うのは自由です。


しかし、いいですか。


現に前回や今回の話のような感覚を持ち「無意識のうちに意識している」という状態で見たり書いたりしている人間もいるのです。

そのような感覚を持った上での「見る目」と、持たないままの「見る目」と、どちらの「見る目」の方が広く深い部分まで見通せるのか、考えてみるまでもないのではありませんか?


言い方が辛辣かもしれませんが、私は皆さんに只のデタラメのまがいものを垂れ流すような事にはなって欲しくないのです。


この辺についての似たような説教臭い話は「形臨をすすめる理由」「まがいもの」「20年間」の回など、これまでにこのブログのあちこちで繰り返してきましたので、これ以上は止めておきましょうね(笑)


さて、前回今回と2回に亘り、「形」についての話をしてきました。

極めて基本的な例を挙げてみたに過ぎませんでしたが、この辺りを無視したままで済ます事は出来ない、というのもまた事実です。

普段の自分を振り返ってみて、少しでも思い当たる事があるとしたら、一度ゆっくり考えてみてください。

そしてそれが、今後のあなたの為に少しでも役立つのでしたら幸いです。


ふ〜・・・

やっぱり真面目な説明は疲れますねぇ(苦笑)

少々頑張り過ぎたので、またサボり癖が出ないように気を付けます(笑)

それではまた。

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2009年06月23日

形の話

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「試食」のカテゴリ、久しぶりですね〜(笑)

今回は何を試食するかというと、形です。


形と言うと字形の事と思うでしょうが、今回はそうではなく「線」の形です。

これは毛筆で書いてこそ初めて問題になる話ですが、私がよく言う形臨をする際にも、この部分が見えてない人が極めて多いので、準備が少々面倒だったのにもめげず(苦笑)、頑張る事にしました。


以前にも少しだけ似たような話をした記憶がありますが、毛筆の場合、線に太さがありますから、同じ「一」の字一つ書いても必然的に線そのものにも形の違いが生じます。

この話の意味、分かるでしょうか?

ここが「???」だと話が先に進みません。

「線の形」とはつまり筆線の輪郭線によって出来る形の事です。

因みに、厳密に言えばペンや鉛筆で書いた線にも太さはありますが、線そのものに「面」としての性格を強く含んでいるか否かという意味では、毛筆の線とは異なりますし、ペンや鉛筆の線の輪郭を無理矢理とってみたところで当然筆線のような話にはなりませんから、今回の話の内容からは外れます。


と、「線の形」についてここまで前置きした上でこれを見て下さい。

  『九成宮醴泉銘』「三」図形     『孔子廟堂碑』「三」図形
       A            B

例えば

「Aの形をそっくり真似して描いて下さい。」

と言われて、Bのような形を描く人はまずいないでしょう。

そっくりそのままとまではいかなくても、少しでもAに近付けて描こうとするはずですし、その反対に

「Bにそっくりに」

と言われたら、今度はAのようには描きませんよね。

だって、AとBとでは形が全然違いますから。


それでは次にこれを見て下さい。

  『九成宮醴泉銘』「三」入筆     『孔子廟堂碑』「三」入筆
      1            2

1は歐陽詢『九成宮醴泉銘』、2は虞世南『孔子廟堂碑』の入筆部分です。

もうお気付きかとは思いますが、さっきのAとBは、この1と2を加工した画像です。

1と2とでは、形、全然違いますよね。


ところがですよ。

AとBの区別なら付けられた筈なのに、同じ事が字の一部分として目の前に現れた途端、皆さん1と2の区別が付かなくなってしまうのです。

それではダメなんです。


今回のような話をすると、大抵は

「そんな事を言われても、字形を追うので精一杯で、そこまで気が回らないよ。」

と言われてしまうのですが、その考えは根本的に間違っています。


そもそも字形というのは今回の話ありきなんですよ。

今回の話を無視した字形の話など、本来有り得ないのです。

何故なら、「入筆の違い」「線の形」も含めての「字の形」なんですから。


「入筆の違い」や「線の形」を置き去りにしたまま「字の形」だけ書こうとするのは、線自体に太さと形を持つ筆線の場合、完全に片手落ちです。

特に、「入筆の違い」と言うのは、「線の形」や字全体に於ける印象を決定付ける極めて大きな要因ですから、それを無視したまま「字の形」ばかりに注意してみてもどうなるものでもありません。

「字の形」は「線の形」によって導き出され、「線の形」は「入筆の違い」によって導き出されているのであり、その字形がその形である為にはその入筆である事が必要、と換言しても構いません。


今回は端的な例として歐陽詢と虞世南の特徴的な箇所を挙げましたが、早い話が『孔子廟堂碑』の入筆では『九成宮醴泉銘』の字形にはならないし、逆もまたしかりなのです。

何故なら『孔子廟堂碑』の入筆では『孔子廟堂碑』の線にしかなりません。

『孔子廟堂碑』の線の形で『九成宮醴泉銘』の字形を書こうと思っても、線の形がそれを許さないのであり、『孔子廟堂碑』の線の形で無理矢理『九成宮醴泉銘』の字形だけをなぞろうと思っても、それでは『九成宮醴泉銘』の印象を持つ字にはならないのです。

この話を裏返すようですが、両者の入筆の姿が似通っている字の場合、両者の字の持つ印象が非常に近いものになっているというのも、決して偶然ではありません。


普段の教室での稽古や私の通信添削を受けている人達は、皆さん今回のような話を毎回のように私に繰り返し言われ続けています。

恐らく皆さんうんざりしている事とは思いますが(苦笑)、それでも皆さんなかなかこの意識が徹底されません。

そのくらい、この「入筆の違い」や「線の形」の問題は極めて重要でありながらも見落とされがちな問題なのです。


これは、ペンや鉛筆などの筆記具で育ってきている事とも関係があるのかもしれません。

何故なら、ペンや鉛筆で書く場合、殆んどの人は「入筆の違い」や「線の形」についてなど、全くと言って良い程に意識する事無く書いているでしょうから。


ですが、もう一度繰り返しますが、「入筆の違い」、「線の形」、ホントに重要なんですよ。


とまぁ、このブログに似合わず画像を使いながらの真面目な説明でしたが、やっぱり疲れますねぇ(苦笑)

しかし、始めてしまった以上、ここで終わりという訳にもいきません。

「線の形」の次は「字の形」の話が待っていますから。


というわけで、次回は皆さんが「字形を追うので精一杯で・・・」と言う、その「字の形」についてのお話をしましょう。(現在準備中です。)

また疲れそうですが(笑)

それではまた。

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2008年03月27日

白黒反転

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最近どうにもまた愚痴っぽくなっている事に気が付きました。(反省)


そこで今回は愚痴は一切無しで!(当たり前ですよね)


早速これを見て下さい。

吾友帖その1少し前に米元章の『蜀素帖』を紹介しましたが、同じ米元章の『吾友帖』です。

蜀素帖』とこの『吾友帖』とでは、同じ人間が書いたとは思えない程にその趣が違いますね。

それでも左への前のめりが強く横画の右上がりが強いところなどは、彼の特徴そのままです。

その辺が孫過庭などとは違うところですが、「真を乱す」とまで言われた彼の事ですから、もっと魏晋そのままに書こうと思えばいくらでも書けたでしょう。


彼は、ある時知り合いから借りたものを模書し、模書の方を返したにも関わらず、知り合いはそれに気付かなかった、という逸話を持っています。

きっと魏晋の書に対しては絶対的なまでの自負があったと思われますが、それにしても北宋の時代にあって、これ程までに魏晋に則った書を書いてしまうのですから驚きです。

しかも尺牘ですからね。

非常に強い自負と自意識とでも呼ぶべきものが無ければ、尺牘でわざわざこのようなスタイルでは書かないでしょう。


「?チンプンカンプン?」

と思った方、ごめんなさい。

前回の話を蒸し返せば、実はこの辺の話こそ、好きなように書きたい部分の最たるものだったりするのですが、始めると間違い無く当分の間戻ってこれなくなるので、今回はここでストップです(泣笑)



さて、もう一つこれを見て下さい。

吾友帖その2これ、実は1枚目の画像を加工して、白黒反転させたものです。

言うまでもなく、拓本の雰囲気を再現してみようと試みたわけですが、如何ですか?

ガラッと印象が変わりますね。

パソコンとスキャナと簡単な画像加工ソフトさえあれば誰にでも同様の事は出来ますので、一度やってみると色々と面白いですよ。


魏晋の書を学ぶ時、拓本というある種の幻の中に肉筆のイメージを想定するのは、今更ここで阮元の「北碑南帖論」を持ち出すまでも無く、なかなか難しい話です。

その難事の直接的な手がかりとしては、ほぼ同時代の『李柏文書』のような肉筆資料や『喪亂帖』などの搨模本があるわけですが、間接的な手がかりの参考としてよく引き合いに出されるものとしては、智永の『真草千字文』や孫過庭の『書譜』などがありますね。

そこで、その間接的な手がかりの中に米元章も加えてみてはどうでしょう。


「え〜っ?」

と思う方もいるかもしれませんが、その書が持っている活きの良さで言えば、『真草千字文』のようにかしこまったものよりも米書の方が数段勝っています。

どうせ模糊として掴み切れない幻なら、出来るだけ活きの良いものを参考にしてみても、悪い事はないと思うのですが。



話が飛躍しますが、そもそも智永にしろ孫過庭にしろ、どれ程魏晋に則った書を書いていると言っても、そこにあるのはあくまでも彼らの体を通した上での魏晋の姿に過ぎません。

その意味では、米元章に留まらず趙子昂や文徴明、董其昌といった時代の下ったところまで見ていくと、少なくとも、中国書道史の中で魏晋という幻がどのように感受されてきたのかが浮かび上がってくるはずです。

この点は魏晋以後の中国書道史を理解する上で極めて重要な部分だと思いますが、極論すれば、それへの理解無しに唐突に王鐸や傅山の中から羲之のエッセンスを抽出してみようとしても、それこそ意味が無いと思うのです。


ストーーープッ!!

飛躍し過ぎてしまいました(汗)



話を白黒反転に戻しましょう。

ややこしい話は抜きにしても、こんな遊びのような事でも実際にやってみると、少しは拓本の見え方が違ってきたりするものです。

今回は肉筆を白黒反転して拓本風にしましたが、反対に、何かの拓本を反転して字の部分を黒くしてみると、これまた非常に面白いですから、是非一度試してみて下さい。

と言うよりも、そのうちそれも改めて取り上げましょうかね。(忘れなければの話ですが・・・)


今回はここまで。

それではまた。

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2008年03月15日

蜀素帖

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今回の試食は米元章『蜀素帖』です。

米元章は米フツの方が通りが良いかもしれませんが、「フツ」の字が表示出来ないので、米元章の方で書きます。


因みに、書に関するブログを始めてみて痛感したのですが、表示出来ない文字が多過ぎます(泣)

余りにも頻繁に出くわすので、それだけで書く気を無くしてしまう事も少なくありません。

フツの字はくさかんむりに「市」に似た形を書くのですが、「市場」の「市」そのままと思い違いしている人がいるので注意しましょう。

正しくは「市」の上部の点を、点ではなく下まで突き抜けた縦画にした形です。(言葉で説明すると何とももどかしいですが、分かりますか?)


さて、この米元章、言わずと知れた中国書道史上屈指のテクニシャンで、この『蜀素帖』でも人間技とは思えないような技術の高さを嫌と言う程見せつけられます。

彼が38歳の頃の書だという事ですが、何とも恐ろしいものだと思います。


今回はこの部分を取り上げてみました。

蜀素帖
特に初学者の場合、書の技術と言うとどうしても筆の扱いにばかり目が行ってしまいがちですが、実際にはそれは誤りです。

書の技術に於ける筆の扱いとはあくまでその一部分に過ぎません。

過ぎないのですが、この『蜀素帖』、とりあえず筆の扱いにのみ注意を傾けたとしても、ちょっとの事ではネタが尽きてしまう心配など要りません。

魏晋や書譜を学び続けてきたような人が、

「もう少し違ったものが学びたい」

と思った時、米元章は格好の素材となってくれる筈ですが、魏晋や孫過庭よりも筆の扱いが格段に複雑になっていますから、最初は少々戸惑うかもしれません。


彼の書は大まかに捉えると、

1、『吾友帖』のような、正に魏晋の尺牘を彷彿とさせるようなもの。

2、『蜀素帖』のような、過剰とも感じる程の超絶技巧を駆使したもの。

3、『虹縣詩巻』のような、脂の抜けきった雰囲気を持つもの。


の3つに大別出来ると思いますが、米元章の書として先ずイメージされるのはこの『蜀素帖』のようなタイプでしょうか。

私個人の好みで言えば『虹縣詩巻』のようなタイプの方が好きなのですが、この『蜀素帖』のようなタイプを抜きにして米書を語るわけにもいかないですからね。



今回掲載した部分では、さんずいの変化の付け方が最も端的で分かりやすいと思います。

「二つとして同じ形が出てこない」

というのは、別に米書に限った事ではありませんし、王羲之でも孫過庭でも、名跡と呼ばれるものにはある程度共通する話ですが、その変化の付け方がハンパではありません。

さんずい一つだけとっても、これ程までに多様な姿として書き分けています。

執拗と言いたくなる程の多彩な変化ですが、どれ程変化を付けながら書いていても、そこには米特有の骨格がしっかりと備わっていて、決して破綻してしまう事がありません。


実際にはこのように、ある1行だけを切り取って見てしまうと、字の傾きや行の揺らぎ、左右の行との空間の絡ませ方、等といった部分が分からなくなってしまいます。

先程も書いたように、実はそのような「筆の扱い方以外」の部分にこそ、本当に重要な事が含まれていたりするのですが、今回はそこには目をつぶったまま話を進めましょう。


魏晋や孫過庭に馴染んだ人が彼の書を学ぼうとした時、一番戸惑うのは実は顔真卿の影かもしれません。

この時代は既に顔書を経験経過してきていますから、それ以前の書のように王書一辺倒というわけにはいきません。

距離の置き方は人それぞれではありますが、王書とともに、魯公からの影響も無視して語る事は出来ないと言ってよいでしょう。

特に、その時代の革新として新たな書の限界を画してきたような人達の場合、その根底には極めて深く魯公の書が根差しています。

そこには書に於ける精神性の問題が大きく関わっているので、単なる表面上の類似性のみに目を向けるべきものではないのですが、それでも、王書からの影響だけでは説明のつかない表現(平易に言えば筆使い)が随所に見られるようになります。


話が脇道に逸れましたが、米書でも、顔書との類似点を挙げようとすると枚挙に暇がありません。

直筆で紙に対し垂直に強く筆圧をかけていくような線などに、その影響は顕著です。

この辺りの話はいつかまた改めて「そっくりさん大会」としてでもお話しましょうね。


とにかく、本来であれば米書の前に魯公の書を学んでおいた方が良いのですが、このブログではまだ魯公の書は一つも扱っていない事に気が付きました(汗)

いつもの悪い癖で、順番などお構いなしの思い付きで書いてしまいましたね(苦笑)


臨書する際は、最初はやはり大きめに半紙4文字大か6文字大で始めた方が良いと思います。

それからこれはこの『蜀素帖』に限った話ではないのですが、大きめでの臨書を繰り返したら、徐々に小さくしていって、最終的には原寸大でも臨書してみましょう。


日常の練習では大きめに書く事が多いでしょうから、ついついそれだけで書けたような気になってしまいがちかもしれませんが、それだけでは片手落ちです。

原寸大に書いてこそ気付く事も多々ありますし、本当の凄さが分かるというものです。


何年も書を学んでいるにも関わらず

「小さいものを書くのが苦手」

「宛名書きや年賀状が書けない」

という人は少なくありませんが、そもそも古典名跡名筆と呼ばれるものは、大抵の場合が小さいのですから、それらの臨書を繰り返してきているにも関わらず、小さいものを書くのが苦手というのは、本当は妙な話であるはずです。


我々凡人が小さな字を書くと、いかにも小さな字を書いたように出来上がってしまいますが、古典名跡名筆と呼ばれるものの場合、小さな字であっても見ている方にそれを感じさせません。

簡単に言うと、良いものはどれ程拡大してもアラが見えたりしないのです。

それを臨書しているにも関わらず、いつまでたっても小さいものが書けないというのは、臨書の仕方が片手落ちであるという証拠でしょう。


話が逸れたついでにもう少し続けますが、この話は特に漢字を専門に学んできた人に多いように思います。

仮名の場合、古筆の臨書に於いて原寸大の臨書というのは極めて自然は話だと思いますが、漢字の場合、何故か半紙6文字大程度の大きさで終わってしまう事が多いようです。

これは作品制作を考えた場合に、漢字は仮名以上に大きな字への志向が強まるという事もあるのかもしれません。

仮名の場合、小字のままでの作品制作の場面が漢字の場合よりも多い傾向にあるでしょうから、原寸大の臨書という学習方法も、自分の作品制作へのヒントとして直接結び付きやすいのでしょう。

実はこの問題には、誰にでも参加可能となった公募展の功罪の一端が見え隠れしているように思います。

原寸大臨書まで手が回らないうちに、公募展へ出品する為の「作品」と銘打ったものを次々と書くようになってしまうが為に、いつまでたっても小さな字が書けない、というおかしな話になってしまっているのではないでしょうか。

どうやら話が逸れ過ぎてしまいましたので、この辺で閑話休題です。


とにかく大きく書いたり小さく書いたり、色々とやってみると、その都度新しい発見があったりするものです。

この『蜀素帖』、私は実物はまだ未見ですが、影印本ですらこれ程凄いのですから、実物を見たらさぞかし物凄いのでしょうね。


今回はいつも以上に話が散らかってしまいました(汗)

反省します。


それではまた。

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いらっしゃいませ。

あれこれ思いつくままに書いているので、書道独特の専門用語や人名などの固有名詞に関しては、その都度解説を付ける事はしていません。

初心者の方や学び始める以前の方には難解な部分も多かったかもしれませんが、お許し下さい。


「一言書いてみたいんだけど、みんなに読まれてしまうコメントに書くのは何だか気が引ける・・・」

という方や、

「何だか下手な事を書いたら説教されそう・・・」

という方、また、通信添削について御質問のある方は、下記のアドレスまで御意見御質問をお送り下さい。

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2008年01月30日

少し違うだけで

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今回の「試食」は『九成宮醴泉銘』です。

「臨書のすすめ」『九成宮醴泉銘』の回で触れた内容と重複する部分も多いのですが、御勘弁を。


この『九成宮醴泉銘』は「楷法の極則」として、つまりは楷書の典型として余りにも有名ですし、初学者が学ぶ事が多いので、少し段階が進んだ人からは、

「初学者が学ぶつまらないもの」

といったような印象を抱かれてしまっている場合もあるようですが、それは大きな間違いです。

以前このブログで取り上げた際にも書きましたが、この書、とても一筋縄でいくような単純なものではありません。


早速これを見て下さい。

九成宮醴泉銘『架』その2

この「架」、実物の一部分を加工して意図的にバランスを崩したものなのですが、何処が加工した部分なのか分かりますか?


次はどうでしょう。

九成宮醴泉銘『架』その4

これもやはり、実物の一部分を加工して、バランスを崩してみたものです。

「最初に実物を見せてくれなきゃ分かるわけないだろ」

と思った方、もう一度良く見て下さい。

私は何も

「何処が実物と違いますか?」

と質問したいのではありません。

「バランスが崩れている原因は何処なのか?」

を探して欲しいのです。

もう一つどうぞ。

九成宮醴泉銘『架』その3

どうでしょうか。


あまりもったいぶると叱られそうなので、答の前に実物を出しておきましょうね。

九成宮醴泉銘『架』その1

これが実物です。

あらためて実物とよく見比べて下さい。

実物を穴が空くほどよく見た後で、バランスを崩した3つを見ると、やっぱり何か変ですよね。


もうお分かりかと思いますが、最初の例は「木」の部分の横画が長過ぎます。

次の例は「木」部の縦画が細過ぎますし、最後の例は「木」部の左の点が内側に入り過ぎています。


「こんなちょっとの違いなんて気付くわけないよ。」

と思った方がいるかもしれませんね。

しかし、この程度の違いに気が付けないようでは、あなたの「見る力」はまだまだという事です。


その一方で

「これだけ違えば誰でも分かるだろ」

と思った方もいるかもしれませんが、実際に自分で臨書する時の事を考えてみて下さい。

今回試した例よりも遥かに大きく違ったまま、実物そっくりに形臨したような気になってはいませんか。

もしもそうなのだとしたら、自分が臨書したものを自分自身の目で実物と比較検討する際には、努めて冷静で分析的、尚且何よりも客観的な目で見なければなりません。

それが出来ていないとすれば、その場合もやはり、まだ「見る力」が足らないという事になります。


この『九成宮醴泉銘』は余りにも完璧な造形が成されいるが故に、只単に実物を何となく眺めているだけでは、それがどれ程高度なバランス感覚の上に実現されているのかが実感しづらい、という皮肉な面を持っています。


例えば

「一分の隙も無い厳格な構築性」

というような言葉で評される事の多い『九成宮醴泉銘』ですが、初学者の場合、いくらそう言われても、なかなか実感しづらいというのが本音だと思います。

この

「実感しづらい」

という本音は、『九成宮醴泉銘』に限った話ではなく、古典や名筆と呼ばれるもの全般と接した時に生じる、初学者にとっての最も大きな問題点かもしれません。


どこがいいのやら?」の回でも書きましたが、臨書の意味の一つとして、古典名筆の素晴らしさに気付く事が出来るだけの「見る力」を養う事が挙げられます。


臨書を繰り返す事によって

「一分の隙も無い」

と評される理由が次第に実感出来るようになってくるわけですが、それには当然そこまでの忍耐が必要になります。

ところが今はパソコンで簡単に画像を加工出来ますから、

「実際に本当にちょっとした事だけで、それ程にバランスが崩れてしまうのか?」

というのを、疑似的に体感出来ますよね。

あくまで擬似的なものでしかありませんし、忍耐強く臨書を繰り返した末に得られる実感とは比べるべくもありませんが、それでもただ話の上で聞いているだけよりは、多少なりとも実感に近づく事が出来るのでは、との思いからの試みでした。


これについては「臨書のすすめ」の『九成宮醴泉銘』の回でも触れていますし、『喪乱帖』の試食でも似たような事をやりましたが如何でしたか?

スキャナと画像加工ソフトがあれば誰でも出来ますので、興味があったら皆さんもやってみて下さい。


この『九成宮醴泉銘』に関しては私自身も随分と臨書を繰り返したので思い入れも強く、話したい事はたくさんあるのですが、また長くなり過ぎるので続きはまたそのうちに。

それではまた。

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初心者の方や学び始める以前の方には難解な部分も多かったかもしれませんが、お許し下さい。


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2007年12月05日

ずれてる?その2

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話が途中のまま、アップが遅くなってしまいごめんなさい。


前回は王羲之『喪亂帖』を採り上げて、字形のバランスについて考えてみましたが、今回はその続きです。

さっそくこれを見て下さい。

喪亂帖『首』その1この「首」も、よく見ると、上部と下部とではその中心がずれているように見えます。

今回もこれを加工して真っ直ぐにしてみましょう。














喪亂帖『首』その2どうですか?

確かに上部と下部の中心は真っ直ぐになりました。

でもこれもやはり、何だか落ち着きません。

何故でしょう?

次を見て下さい。









喪亂帖『首』その3これは加工後の画像に色を付けたものですが、先ずは青い横画の長さに注目して下さい。

ちょっと長過ぎてしまうようです。

次に赤い縦画の太さを見て下さい。

ちょっと細過ぎるように感じます。


つまり、青い部分の長さも、赤い部分の太さも、上下がずれているからこそ成り立つ長さであり太さなのです。

裏を返せば、青い部分の長さや赤い部分の太さがこのようであるからこそ、上下がずれているようでありながらバランスが取れているのです。

長さも太さも、これ以上でもこれ以下でもダメなのです。

更に換言すれば、青い部分がこの長さで引かれた時点で、下部が右にずれる事は必然として決定し、下部が右にずれる事によって、赤い部分の太さも必然として決定した、という事でしょう。

このように、一画目の姿が次の一画の姿を決定付けていきながら書き進められ、その連鎖の結果として一つの文字としての全体像が姿を現すのです。

そしてその一つの文字の姿が次の文字の一画目を決定付け、その一画が次の一画を・・・

というように次々と連なりながら書かれていくのです。

以前、この話を最も単純な部分に限定した内容を「最初の一歩」の回でも書きましたね。


初学者の場合、どうしても今書こうとしている一点一画にだけ目がいってしまいがちです。

しかし、その一点一画がそのような姿になっているのには理由があるのです。

その一点一画がそのような姿として導き出された理由が。


ですから、例えば臨書をすると言っても、その理由に気付かずにただ闇雲に書いていてもダメなのです。

臨書とは、ある意味では、この理由を理解しながら、必然の連鎖を後追いする事によって追体験しながら、その感覚を身体に覚えこませていく作業なのです。


以前、このブログのどこかで

「書の才能とは?」

みたいな話をした事がありました。


その時には

造形に対する反射神経

とだけ書きましたが、今回の話の上でもう一度考えてみると、その意味が少しだけでも分かっていただけるのではないでしょうか。


話が脇道にそれ始めたようなので、今回はここまで。

それではまた。

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2007年11月30日

ずれてる?

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今回の試食は王羲之『喪亂帖』です。

とても有名なものなので、御存知の方も多いでしょう。


今更言うまでもありませんが、王羲之の肉筆というのは一文字も現存しません。

この『喪亂帖』も極めて精巧に作られた双鈎填墨です。


王羲之の書の実像とは一体どのようなものであったのか?

という点については余りにも難しい問題なので、このブログでは扱いきれません。

そこでここでは、王羲之の書としてではなく、あくまで『喪亂帖』そのものとして扱うことにしましょう。


早速これを見て下さい。

喪亂帖『毒』その1

この「毒」の字、どう思いますか?

「別に何とも…」

とか言わず、よ〜く見て下さい。


この字、上半分と下半分とで、ずれていませんか?

分かりやすく線を引いてみました。

喪亂帖『毒』その2

上半分と下半分、それぞれの中心に赤い線を引きました。

上半分の赤い線をそのまま延ばすと、青い線の位置を通る事になり、下半分の中心を通りません。

ほら、ずれてるでしょ。


下半分がずれているのなら、というわけで、下半分を上半分の真下にくるように、ちょっと加工してずらしてみました。

そうすれば、真っ直ぐになってくれる筈ですよね。

喪亂帖『毒』その3

どうですか?

真っ直ぐになりました。


ところが・・・なのです。


真っ直ぐになった筈なのに、何だか落ち着きません。

どうしてでしょう?


次を見て下さい。

喪亂帖『毒』その4

上半分と下半分とを真っ直ぐに並べた筈が、字全体を見ると、赤い線のように重心(中心ではありません)が傾いてしまいました。

具体的に言うと、一番下のはねている部分が、左に顎を突き出したようになってしまいました。


もう一度さっきの画像に戻ります。

喪亂帖『毒』その2

実はこの字、上半分と下半分、それぞれの中心は一見ずれているかのように見えますが、字全体の重心は上半分の赤い線から下半分の青い線へとしっかり通っているのです。

一番下のはねている部分が字全体の重心をしっかりと受け止める位置にあることが分かるでしょう。


このように、一見すると上下がずれているかのように見えるバランスの取り方というのは、この字だけではなく『喪亂帖』のあちこちで、更に言えば、王羲之の書として伝えられているものの中のあちこちで見られます。


話が長くなってきたので、今回はここまでにして、次回、同じく『喪亂帖』から、もう一つ別の例を挙げてみたいと思います。

それまで、加工前と加工後の画像をよく見比べてみて下さい。

喪亂帖『毒』その1 喪亂帖『毒』その3

それではまた。

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2007年11月26日

空間交錯

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今回の試食は黄庭堅の『李白詩巻』です。

もっと長く『李白憶旧遊詩巻』と呼ばれる事の方が多いようですが、ここでは短く『李白詩巻』としておきます。


この書、私が中国書道史上、草書で書かれたものの中では最も好きな書です。

ところが悲しい事に未だに実物は未見・・・(悲)

確か、京都の藤井斉成会有鄰館の収蔵で、もうず〜〜〜っと長い間、「いつか必ず見たい!!」と思っているのですが、なかなかタイミングが合いません(涙)


さて、今回採り上げた部分を見て下さい。

空間交錯その1

初学者の場合、草書と言っても王羲之や孫過庭などを中心に学び始める場合が多いと思うので、この書をいきなり見せられても、少々戸惑うかもしれませんが、せっかくの「試食」ですから、最後までお付き合い下さいね。


今回の試食のポイントはどこかというと・・・

ここです。

空間交錯その2

「鞍金」と書いてあるのですが、この2文字、実はとても大きなポイントが隠れています。


唐の張旭あたりから急速に強まった連綿線による文字間の連続性は、懐素に至り、連綿線と実画との質的な差異の消失という形にまで進められます。

これは簡単に言えば、連綿線と実画とを同じ線質で書き続けてしまうという事です。

その分、見る側の視覚的な連続性が更に強まった事は言うまでもありませんが、それ以上に、それを書く側の意識上の連続性も極めて強くなりました。

この点は懐素の『自叙帖』を見れば、一目瞭然でしょう。

人々は彼らの書を、それまでの書と比較して「狂草」と呼びました。

狂草の名を欲しいままにした2人でしたが、その2人ですら、越えられなかった壁があります。


それは何か?



それぞれの文字が持っている空間です。


私は教室でこれを

「その文字が持っている縄張り」

という言葉で説明していますが、文字の周りにはそれぞれ、

「最低限、ここから内側は自分の空間。だから入ってくるな。」

という空間の範囲があります。


妙な表現で申し訳ありません。

これはあくまで感覚的なものなので、なかなか言葉では説明しにくいのですが、書体の違いに限らず、必ずそれは存在します。


そしてその空間の壁を突き破ったのが、今回取り上げた黄庭堅なのです。


同じ部分に色を付けてみました。

空間交錯その3

青い部分が問題の部分です。

ここには「金」の1画目が書かれていますが、この空間はそれまでの書の感覚では明らかに「鞍」の空間です。

ところがその「鞍」の空間に、「金」が深く入り込んでいるのです。


私はこれを

「文字の空間交錯」

と呼んでいます。


このような空間交錯は張旭や懐素には見られないものでした。

張旭や懐素の狂草がどれ程に文字間の連続性を強めていたと言っても、文字毎の空間はあくまでも不可侵だったのです。

その意味では懐素の連綿ですら、文字毎の空間を連結させる役目を持っていたに過ぎません。


ところがここではその壁は完全に取り除かれてしまっています。


「鞍金」は2文字でありながら、あたかも1文字であるかのような意識で書かれ、その結果、あたかも1文字であるかのような姿を見せる事になったのです。


このような空間交錯は、明末清初の書を知っている人にとっては、

「それで?」

といった感じで、今更それ程驚くべき事ではないのかもしれませんが、書道史を考えた時、この書の持っている革新性は極めて重要です。


何故なら黄庭堅の書を境として、文字空間に対する認識が大きく変化していく事になるからです。


彼の書無しには明末清初の連綿草が導き出される事などなかった、とまでは言いませんが、明末清初の連綿草が、彼がここで越えた壁の向こう側でこそ実現可能となったのも事実でしょう。


これは書に限った話ではありませんが、ある一つの革新的な表現方法が実現された時、その事自体が重要な意味を持つのは勿論ですが、そのような革新的な表現を受け入れるだけの素地がその時代に既に用意されていた、という点も同じくらい重要です。

この点を理解しておかないと、革新性を目の前にした時に、どこまでが時代的必然で、どこからが個人的能力による飛躍なのかが分からなくなってしまいます。


ですから、

「明末清初だけ知っていればいいや」

というのでは余りに短絡的だと思うのです。


尤も、書を何年もやっていても、先生からもらった手本しか知らず、黄庭堅どころか明末清初すら

「何それ?」

という人も少なくないのかもしれませんが・・・


おっと危ない!

またいつもの愚痴が始まってしまいそうなので(苦笑)

今回はここまでにしましょう。

それではまた。


あ!

一つだけ、言い忘れました。

因みに日本の書ではどうだったかというと、日本人は中国人とは全く異質の感覚によって、文字毎の空間の壁を溶解させてしまいました。

言うまでもなく、仮名による表現です。

これについての詳細は、またいつの日にか。


それではまた。

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2007年11月14日

右上がり?

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こんなカテゴリーを作ってみました。

「試食」


「書のブログで何の事だ?」

と思われてしまいそうですね。


このカテゴリーでは、私の臨書歴の中で、心に深く残っている部分、特にお気に入りの部分などに焦点を当てて取り出してみようと思います。


これまでこのブログでは色々な場面で臨書をお薦めしてきましたが、臨書への考え方や実際の取り組み方は人それぞれですし、それより何より実際に臨書をする以前に、

「臨書が大切だというのは分かるんだけど、どうも取り掛かりにくくて・・・」

と最初の一歩がなかなか踏み出せずにいる人もいることでしょう。


そんな人達に、このカテゴリーで取り出した部分を「試食」してもらい、実際に臨書を始めてみるきっかけにしてもらえたら、と考えています。


というわけで、「試食」の第1回目は、『張猛龍碑』から「峯」の一字です。


『臨書のすすめ 楷書』の『張猛龍碑』の回でも書きましたが、私は『九成宮醴泉銘』『孔子廟堂碑』の後に、この碑の臨書をしました。

最初は『九成宮醴泉銘』や『孔子廟堂碑』との雰囲気の違いにとても戸惑ったことを覚えています。

その中で、最も衝撃的だった一字が「峯」でした。


早速見て下さい。

張猛龍碑『峯』

上部は欠損が激しいですが、問題はもっと下の6画目、所謂右払いになる一画です。


「何がそんなに?」

と思われるかもしれませんが、問題の部分を赤くしてみたのでもう一度よ〜く見て下さい。

張猛龍碑『峯』その2


どうですか?

この一画、通常であれば左上から右下に向かって、つまりは右下がりに書かれる場合が多いですよね。

ところが、この一画は右下がりどころか右上がりになってしまっています。


「何だこりゃ!?」


これがその時の私の正直な感想でした。


「こんなのもアリなのか!」


という驚きでもありました。


この一画によって、楷書と言えば『九成宮醴泉銘』や『孔子廟堂碑』のような所謂初唐の楷書のイメージしかなかった私の中で、楷書に対する固定観念が音を立てて崩れ落ちました。

と同時に、自分の知らない楷書の世界の存在に気付くきっかけにもなったのです。


尤も、後になって、この一字の姿が『張猛龍碑』の中でも少々特異なものであるという事にも気付くのですが、それでも私にとっての『張猛龍碑』の印象というと、今でもこの字と出会った時の驚きが一番に浮かんできます。

特異なものであるという事を考えると、『張猛龍碑』の試食としては適さないのかもしれませんが、初唐の楷書しか触れたことの無い人にとっては充分に試食してみる価値のある一画だと思い、敢えてこのカテゴリーの一回目に採り上げました。


「見ているだけでも同じでしょ」

と思ったあなた。


違うのです。


「見ているだけ」と、「実際に筆を持って書いてみる」のとでは。


書いてみましょうね。



さて、「試食」として始めたこのカテゴリー。

こんな感じでいきたいと思っています。


既存のカテゴリーもあまりサボらずに続けるつもりでいますので(苦笑)、これからもよろしくお願いします。


それではまた。

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