2007年05月01日

臨書が好きで何が悪い

これまでの記事の一覧はこちらへ
記事の一覧です

通信添削についてはこちらへ
通信添削について』

メールによる御質問はこちらのアドレスへ
nonbirishodo@mail.goo.ne.jp

----------------------------------------------------------

近年、書道というと、所謂「お習字」と呼ばれるような習い事としての意味合いと、高らかに自己表現を謳った「芸術作品」としての意味合いと、その両極端のような気がしてなりません。(実は最近に始まった事ではないのですが・・・)


お習字が書とは全くの別物だとは言いませんし、書を始めるきっかけとしての「字がキレイになりたい」という気持ちについても否定するつもりは全くありませんが、極めて広く深い書の世界の全体像からすると、それはあまりにも狭い範囲の話でしかありませんから、書道教室でちょっと筆を持った程度では、書の世界の入り口に立つことすら出来るかどうか、というのが現実です。


一方、以前「まがいもの」の回でも愚痴をこぼしましたが(苦笑)、自分を

「私は書家だ!」

と騒ぎ立て、「自己表現」や「芸術」といった言葉を連呼し、その挙句に化け物じみたまがいものを垂れ流している、という人間も数多くいます。

テレビを始めとするメディアに受けの良いのは、大抵はこちらの部類のようですし(全てがそうだとは言いませんが)、一般的なイメージも、彼らのようなタイプを「書家」としてイメージしているのではないかと思います。


また、公募展での入選入賞歴に血筋を上げ、賞の上下や役職の上下によってしか自分や人の書を判断出来なくなってしまっている、という場合もありますね。

この場合も、本人は「自己表現」による「芸術作品」を生み出しているという自負は極めて強いのでしょうし、書を本気で学んでいるという自尊心もあるのでしょう。

しかし、入選入賞歴や役職など、本来は書とは何にも関係の無い事です。

何も関係の無い部分に囚われて、この弊に陥ったまま、自分自身それに気付かずにいる人は決して少なくありません。

この辺の話は、以前「必要悪」「必要悪その2」の回でも、昇級制度を例に挙げてお話しました。


お習字レベルで書を分かったかのような顔をして語ってしまうのもどうかと思いますし、かと言って

「『自己表現』だ!『芸術』だっ!!そうでなければ書ではないっ!!」

と意気込み過ぎてしまうのも、あまりに短絡的ではないかと思います。


「きれいな字」がどうだとか、「芸術」がこうだとか、「入選入賞役職」が何だとか、そんな事には興味が無い。

そういった事に左右されることも無く、「作品を書く」などと肩肘張ることも無く、来る日も来る日も好きな臨書に明け暮れる。

そんな書の姿の方がよっぽど純粋で潔いではありませんか。

そんな書との関わり方も、もっと積極的に認められるべきだと思うのですが・・・


書の世界では昔から「奴書」に陥る事を何よりも警戒し忌み嫌いました。

簡単に言えば、ただの物真似に終わってはいけない、という事です。

しかしもしも私が、例えば徐青藤と同じだけ書けるようになれるのなら、彼が見ていたであろう書の世界に於ける景色を、私も見ることが出来るのなら、私は彼の物真似で終わってしまったとしても、それで十分に幸せでしょう。

勿論本質的には、物真似に終わってしまっていては、彼らの辿りついた領域には決して立つ事は出来ないのでしょうし、そこまで含めた上での「奴書」に対する警戒なのですが・・・


西川寧氏は、趙之謙に深く傾倒していた時、次のような一文を残しています。


今はもっと己を捨てて趙子の懐に抱かれていたい。ただもうそれだけでいいと思っている。「人の奴書となるなかれ」という言葉がある。「一家を樹立する」という考えがある。これは確かにホントウの事である。しかもこういう考えは、今の私には却って小英雄の空虚な雄たけびでしかない。


この一文、我々のような凡人こそ、もう一度じっくり考え直してみるべきではないでしょうか。


みなさん、どう思われますか?

----------------------------------------------------------

初めてこのブログを読まれた方へ。

いらっしゃいませ。

あれこれ思いつくままに書いているので、書道独特の専門用語や人名などの固有名詞に関しては、その都度解説を付ける事はしていません。

初心者の方や学び始める以前の方には難解な部分も多かったかもしれませんが、お許し下さい。


「一言書いてみたいんだけど、みんなに読まれてしまうコメントに書くのは何だか気が引ける・・・」

という方や、

「何だか下手な事を書いたら説教されそう・・・」

という方、また、通信添削について御質問のある方は、下記のアドレスまで御意見御質問をお送り下さい。

誹謗中傷を目的としたような常識に反するもの以外、お返事させていただきます。

nonbirishodo@mail.goo.ne.jp


定期的にアップ出来ているわけではありませんが(正直言ってサボりがちです)、よろしかったらまた覗きにいらして下さい。

ラベル:書道
posted by 華亭 at 11:23| Comment(2) | TrackBack(0) | 臨書のすすめ 全般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月20日

形臨をすすめる理由

これまでの記事の一覧はこちらへ
記事の一覧です

通信添削についてはこちらへ
通信添削について』

メールによる御質問はこちらのアドレスへ
nonbirishodo@mail.goo.ne.jp

----------------------------------------------------------

最近、多忙のため、なかなかアップ出来ずにいます。

自分でももどかしいのですが、少しずつでも話を進めていきたいと思っていますので、お許し下さい。


さて、今日は少し話題を変えましょう。

これまで「臨書のすすめ」と題して、古典名帖を少しずつ紹介してきました。

その中で、繰り返し

「とにかく形臨です」

とお話してきましたが、読者の皆さんの中には

「形臨なんて、そんなにひたすら繰り返したって仕方が無いだろう」

と思われる方もいるでしょう。


そこで今回は、なぜ私がそれほど

「とにかく形臨。ひたすら形臨。そっくりそのままを目指して。」

と言うのか、その理由をお話してみたいと思います。


話が矛盾するようですが、形臨の目的は、そっくりそのままに書けるようになることではありません。


そっくりそのままに書けるように臨書を繰り返すことで、筆法は勿論、その古典の造形感覚といった部分、更には書品や書格といった言葉で語られる事の多い「書の匂い」のようなものまでを理解し、会得する事こそが目的です。


技術って本当にいらないの?」「技術って本当にいらないの?その2」でも書きましたが、技術とは表現を実現するための道具に過ぎません。

しかし、道具が無ければ表現を実現する事など出来ない、というのもまた事実です。

そして、臨書とは、その道具を手に入れるための手段の一つなのです。


「それなら別に形臨でなくてもいいだろう。それを意識した上での意臨で十分だ。」

と考える人もいるかもしれませんが、そんな中途半端な意識では、本当の意味での技術など身に付くものではありません。

正直に申し上げれば、

「意臨で十分だ」

などという考えは、筆法や造形感覚までを含めた意味での自分自身の技量を、古典名帖のそれと肩を並べたものとして考えているような、極めて自惚れた考えであると言わざるを得ません。


そんな事を言う人に限って、古典名帖の一番大事な部分にいつまでたっても気付かず、勘違いしたままの化け物じみた「まがいもの」を垂れ流しにして悦に入っているものなのです。(「まがいもの」の回を参照)


確かにそっくりそのまま書けるようになってみたところで、それだけでは何の意味も無いのかもしれません。

しかし、そっくりそのままに書けるようになった頃には、それ相当の技術が、つまりは道具が自分の手に入っている筈です。

そして、その道具を手に入れようと苦心する過程そのものが、あなたを、そしてあなたの書を成長させるのです。


「形臨ばかりを繰り返していたら、型にはまって抜け出せなくなる」

などというセリフもよく聞きますが、はまれるものならはまって見せてください。

以前も書いたように、5回や10回程度の形臨では、型にはまる事すら出来ませんよ。

10回や20回程度の形臨で、抜け出せなくなるほどに型にはまり込む事が出来た人間になど、私は今まで出会った事がありません。


「私の書とは書風が違うから」

こんなセリフもよく聞きますが、これこそ単なる逃げ口上に過ぎません。

それでは反対にお尋ねしますが、あなたの書風とは何ですか?

せいぜい師匠の手本を中途半端に真似しただけの、極めて低次元の意味での

「それしか書けない」

という意味での書き癖の事でしょう。


特に、教室の規模の大小は別として、「先生」と呼ばれ、人様に書を教えているような立場の人間の場合、例えそれが自分の書風とは全く違っていたとしても、例え自分が嫌いなものであったとしても、

「そっくりに書く事くらいまでなら出来る」

というのは、大前提の最低条件だと思います。


ちょっと辛口に過ぎましたか・・・(反省)


自分が普段書きなれていないものであるのなら、尚更、その中には自分の未知の世界が待っているのですから、無心に謙虚に、そして積極的に接するべきだと思います。


私が自分自身に掲げている言葉があります。

「百見不如一筆(百見は一筆にしかず)」

これは私が「百聞は一見にしかず」をもじって作った言葉です。

「くだらない・・・」

と失笑されそうですが、

「見ているだけで分かったような気になるのはやめよう。先ずは自分自身で書いてみよう。全ての話はそれからだ。」

と、今でも自分自身に言い聞かせ続けています。


話が少し逸れてしまいました。

私が「とにかく形臨」と言い続けている理由が少しはお分かりいただけたでしょうか?


形臨や意臨の違いなど、臨書については西川寧氏が、その著作の中で氏特有の理論を展開させていて大変興味深いです。

初学者にとっては、氏の著作は内容が難解な部分が多いので、ここでは具体的な紹介はしません。

興味のある方は、自分で調べてみて下さい。



このブログでは、これからも

「とにかく形臨。ひたすら形臨」

と言い続けますので、覚悟しておいてくださいね(笑)


それではまた。

----------------------------------------------------------

初めてこのブログを読まれた方へ。

いらっしゃいませ。

あれこれ思いつくままに書いているので、書道独特の専門用語や人名などの固有名詞に関しては、その都度解説を付ける事はしていません。

初心者の方や学び始める以前の方には難解な部分も多かったかもしれませんが、お許し下さい。


「一言書いてみたいんだけど、みんなに読まれてしまうコメントに書くのは何だか気が引ける・・・」

という方や、

「何だか下手な事を書いたら説教されそう・・・」

という方、また、通信添削について御質問のある方は、下記のアドレスまで御意見御質問をお送り下さい。

誹謗中傷を目的としたような常識に反するもの以外、お返事させていただきます。

nonbirishodo@mail.goo.ne.jp


定期的にアップ出来ているわけではありませんが(正直言ってサボりがちです)、よろしかったらまた覗きにいらして下さい。





ラベル:書道
posted by 華亭 at 20:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 臨書のすすめ 全般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月07日

何から始めれば?篆書の場合

これまでの記事の一覧はこちらへ
記事の一覧です

通信添削についてはこちらへ
通信添削について』

メールによる御質問はこちらのアドレスへ
nonbirishodo@mail.goo.ne.jp

----------------------------------------------------------

前回まで「字書(篆書の前に。)」として、長話を続けていましたが、それもようやく終わりました。

我ながら、余りにも前置きが長過ぎて、本題を忘れてしまいそうになりました・・・(苦笑)


何だか久しぶりになってしまいましたが、今回こそは篆書の「何から始めれば?」です。

そこで、恒例の「私の臨書遍歴」をお話してみたいと思います。


私の場合、「字書(篆書の前に。)」で書いてきたように、最初のうちは字書との地道な格闘をひたすら続けていましたが、当然それは臨書とは話が別ですので、ここでは臨書のお話です。


私が最初にやった篆書の臨書は『石鼓文』でした。

それも『石鼓文』そのものではなく、呉昌碩の臨書したものでした。

これまたいつものように師からの支持でしたので、特にそれを選んだ理由があったわけではありません。


呉昌碩の『石鼓文』を臨書しながらも、字書との格闘を続けていた私は

「これは一度、じっくりやらんといかんな」

と思い直し、なるべくシンプルで基本としやすいものを探しました。

その結果、私が選んだのが呉大澂です。


さて、ここで問題になるのがテキストです。

私がテキストで使ったのは『二玄社 書跡名品叢刊(旧版)』でした。


篆書の場合、このブログでテキストとして紹介してきた二玄社『中国法書選』ではカバーしきれません。

かと言って、ここで『名品叢刊』の話を持ち出してしまうと、これから入手しようとする方が困るでしょうから(現在出版中の復刻版『名品叢刊』は分売不可)、ここでは『二玄社 篆隷名品選』を挙げておきます。


呉大澂の書く金文は、極めて明確で端正です。

その分、現代には淡白過ぎてアピールしないのでしょうが、基本として扱うには最適なもののように思えました。

呉大澂を随分やった後、清人のものを中心に進めていきました。

『泰山刻石』をじっくりやったのは、その後だったと思います。

この進み方は人によって色々と異論があるでしょうが、これも一つの方法かとも思います。


それからもう一つ、随分とやったことがあります。

篆書千字文

これは小林斗あん氏(「あん」の字が表示出来ません)が書いた小篆の千字文なのですが、これをテキストにして、それを呉譲之や趙之謙などの清人諸家の風に倣って書いてみたり、それも半紙4文字大、2文字大、1文字大と様々や大きさで書いてみたり、ということを、さんざんやりました。


篆書の学習は、一人で進めていく場合、他の書体以上に

「どこから手を付ければいいのかわからない」

という事になりがちだと思います。


今回お話したのはあくまで私の経験談でしかありませんが、それでも少しは参考になるかもしれない、と思い、いつもどおりお話してみました。


これまでこのブログで何度も繰り返してきた事ですが、練習をする際の基本はあくまでも

「同じ筆圧、同じ速度」

です。


その事をもう一度、肝に銘じ直してから、練習して下さいね。


さて、次回は何の話にしましょうか。

それではまた。

----------------------------------------------------------

初めてこのブログを読まれた方へ。

いらっしゃいませ。

あれこれ思いつくままに書いているので、書道独特の専門用語や人名などの固有名詞に関しては、その都度解説を付ける事はしていません。

初心者の方や学び始める以前の方には難解な部分も多かったかもしれませんが、お許し下さい。


「一言書いてみたいんだけど、みんなに読まれてしまうコメントに書くのは何だか気が引ける・・・」

という方や、

「何だか下手な事を書いたら説教されそう・・・」

という方、また、通信添削について御質問のある方は、下記のアドレスまで御意見御質問をお送り下さい。

誹謗中傷を目的としたような常識に反するもの以外、お返事させていただきます。

nonbirishodo@mail.goo.ne.jp


定期的にアップ出来ているわけではありませんが(正直言ってサボりがちです)、よろしかったらまた覗きにいらして下さい。

ラベル:書道
posted by 華亭 at 13:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 臨書のすすめ 全般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月23日

何から始めれば?隷書の場合

これまでの記事の一覧はこちらへ
記事の一覧です

通信添削についてはこちらへ
通信添削について』

メールによる御質問はこちらのアドレスへ
nonbirishodo@mail.goo.ne.jp

----------------------------------------------------------

今回は隷書の「何から始めれば?」です。


隷書の場合、二玄社『中国法書選』に収められている種類が少ないので、正直な話、隷書学習の最低限をカバーしきれなのですが、贅沢ばかりも言っていられません。

「何から?」

となると、隷書の場合、『曹全碑』や『礼器碑』あたりがよく引き合いに出されます。

ちなみに私は『曹全碑』からでした。

『曹全碑』をひたすらやってから、(当然これまた形臨です)次に『礼器碑』をやったような気がします。

その次あたりから記憶が定かではないのですが、『乙瑛碑』、『史晨前後碑』、『孔宙碑』、『西嶽崋山廟碑』などの、所謂八分の典型的なものをやりました。(『孔宙碑』『西嶽崋山廟碑』は、二玄社『中国法書選』未収)

『石門頌』『西狭頌』『楊淮表紀』などのゆるいもの、それから『張遷碑』『北海相景君碑』などは八分をさんざんやってからでした。


二玄社『書道講座 隷書編』の中で、西川寧氏は、隷書の造形や筆法の説明として『乙瑛碑』を取り上げています。

余談ですが、二玄社『書道講座』については、そのうちに別途取り上げる予定ですが、『書道講座』という名前からは想像つかないほどに極めて高い内容を誇っています。

執筆陣だけを見ても、毎日系と讀賣系とに分裂して久しい現在の書壇では信じられないような顔ぶれです。


話を戻しましょう。

『書道講座』を読んで、

「おぉ!なるほど」

と鵜呑みにした私はその後しばらくひたすら『乙瑛碑』でした(笑)


他のものに比べて字数も少ないので、慣れると一日で2回ほど全臨出来ます。
何十回か全臨(しつこいようですが形臨です)してから、活字の釈文を見て書き(所謂背臨のようなものですね)、それを後で自分で添削する。
というような事を随分とやりました。

この方法は『乙瑛碑』だけではなく、『曹全碑』『礼器碑』『史晨前後碑』などでもよくやりました。


さて、本題のどれからにするか?という問題ですが、私は『曹全碑』をお薦めします。

しっかりとした結体やのびのびとした波磔を学ぶには格好ですし、字画も鮮明です。

漢隷の頂点は『礼器碑』、という評は古来ありますが、いきなりやるには少々筆法が複雑過ぎると思います。

さて、『曹全碑』『礼器碑』に限らず、それぞれ特色が異なりますから、仮に最初の一本として『曹全碑』を選んだとしても、その後は『中国法書選』所収のものは全部やるつもりでいましょうね。


それから大事な話を忘れていました。

隷書の学習で欠かせないもの。

それは木簡や竹簡などの肉筆による隷書です。

結体の厳正な点では石刻ものにはかないませんが、その生きた筆線による印象に触れておくことは極めて重要です。

ただし、今回は「何から始めれば?」ということで話をしていますので、肉筆ものについてはここまでにしておきます。

前述の西川氏は、

「石刻ものでも肉筆ものでも、自分の興味に従って進んでいけばよい」

といった内容の事を書いていますが、一般的にはいきなり肉筆ものに飛びつくのはやはり少々危険だと思われます。

石刻ものを十分にやった後でも遅くはありませんよ。


今回は隷書について書いてみました。

篆書についても書かなければならないのですが、篆書は話が極めて厄介なので、ここにアップ出来るまで随分と時間がかかってしまいそうです。

それまでの間、他の話題で進めていきますので、お待ち下さい。

それではまた。

----------------------------------------------------------

初めてこのブログを読まれた方へ。

いらっしゃいませ。

あれこれ思いつくままに書いているので、書道独特の専門用語や人名などの固有名詞に関しては、その都度解説を付ける事はしていません。

初心者の方や学び始める以前の方には難解な部分も多かったかもしれませんが、お許し下さい。


「一言書いてみたいんだけど、みんなに読まれてしまうコメントに書くのは何だか気が引ける・・・」

という方や、

「何だか下手な事を書いたら説教されそう・・・」

という方、また、通信添削について御質問のある方は、下記のアドレスまで御意見御質問をお送り下さい。

誹謗中傷を目的としたような常識に反するもの以外、お返事させていただきます。

nonbirishodo@mail.goo.ne.jp


定期的にアップ出来ているわけではありませんが(正直言ってサボりがちです)、よろしかったらまた覗きにいらして下さい。
ラベル:書道
posted by 華亭 at 17:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 臨書のすすめ 全般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月18日

何から始めれば?楷書の場合

これまでの記事の一覧はこちらへ
記事の一覧です

通信添削についてはこちらへ
通信添削について』

メールによる御質問はこちらのアドレスへ
nonbirishodo@mail.goo.ne.jp

----------------------------------------------------------

今回は楷書の臨書について、私の臨書遍歴を書いてみたいと思います。


私は『九成宮醴泉銘』から始めました。

『九成宮醴泉銘』を選んだ理由などありません。

行・草の場合と同様、単に師からの支持でした。

そして、とにかくひたすら『九成宮醴泉銘』でした。

十回や二十回ではとても足りません。

ただひたすら『九成宮醴泉銘』でした。


テキストとして使っていた二玄社『中国法書選』はボロボロになってしまいましたが、何だか捨てるに忍びないので未だにそのままとってあります。


『九成宮醴泉銘』の次は『孔子廟堂碑』だったと思います。

これまた随分ひたすら書きました。


何故それほどこの二本に時間をかけたのか?

『九成宮醴泉銘』を始めたのは師からの支持でしたが、そのうちにこの二本が「楷法の極則」と呼ばれ、古来、楷書の頂点に立つものであると考えられてきた、という事を知ります。

「それならば、まずはとにかくこの二本に専念しよう。」

と考えたのでした。


随分と長い間、この二本を書き続け、最初は全臨するのに一週間かかっていたものが、一日〜二日で書けるようになった頃、

「そろそろ次に移ろうかな」

と始めたのが『張猛龍碑』です。

「え?『雁塔聖教序』じゃないの?」

と思ったかもしれませんが、『雁塔聖教序』は極めて特異な書です。

「特異なものは後回し」

これが私の基本姿勢だったので、『雁塔聖教序』は後回しにしました。


『張猛龍碑』ではなく、いきなり龍門二十品という順序もあるのでしょうが、その当時の私の目には

「いきなりではこれはきつそう」

と感じられたので、北方系の中でも比較的洗練されているように思えた『張猛龍碑』を経由して、龍門系に遡ろうと考えました。

『高貞碑』の存在を知ったのは、そのずっと後でした。


ちなみに正直な話をすれば、このブログでは随分と偉そうな事を書いていますが、私が師の指示で『集字聖教序』や『九成宮醴泉銘』の臨書を始めた頃、私は初唐の三大家とは誰なのかすら知りませんでした。

それほど無知だったのです。

そんな当時の私にとって、龍門系や鄭道昭の書が難解なものに思えたのも、今考えれば無理もありません。


『張猛龍碑』もやっぱりひたすら続けました。


『雁塔聖教序』や顔真卿はこの後だったと思います。

結果として、初唐を中心とした前後を入ったり来たりしたことになりますね。


龍門系や鄭道昭はその後です。


ここまで自分で振り返ってみると、私の楷書は『九成宮醴泉銘』『孔子廟堂碑』『張猛龍碑』の三本、特に『九成宮醴泉銘』がその根本にあるのだなぁ、と感じます。


『九成宮醴泉銘』、学ぶのに手間はかかりますが、手間をかければかけた分だけの事はあると思います。


前回も今回も、あんまり皆さんの参考にはならないような気がしてきましたが、

「こんな奴もいるんだな」

とでも思ってもらえればそれで十分です。


それではまた。

----------------------------------------------------------

初めてこのブログを読まれた方へ。

いらっしゃいませ。

あれこれ思いつくままに書いているので、書道独特の専門用語や人名などの固有名詞に関しては、その都度解説を付ける事はしていません。

初心者の方や学び始める以前の方には難解な部分も多かったかもしれませんが、お許し下さい。


「一言書いてみたいんだけど、みんなに読まれてしまうコメントに書くのは何だか気が引ける・・・」

という方や、

「何だか下手な事を書いたら説教されそう・・・」

という方、また、通信添削について御質問のある方は、下記のアドレスまで御意見御質問をお送り下さい。

誹謗中傷を目的としたような常識に反するもの以外、お返事させていただきます。

nonbirishodo@mail.goo.ne.jp


定期的にアップ出来ているわけではありませんが(正直言ってサボりがちです)、よろしかったらまた覗きにいらして下さい。
posted by 華亭 at 13:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 臨書のすすめ 全般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月17日

何から始めれば?行・草の場合

これまでの記事の一覧はこちらへ
記事の一覧です

通信添削についてはこちらへ
通信添削について』

メールによる御質問はこちらのアドレスへ
nonbirishodo@mail.goo.ne.jp

----------------------------------------------------------

「臨書のすすめ」と題して古典の名帖を紹介していますが、教室などに通うことなく一人で勉強をしている方にとっては、

「こうやって紹介されても、どれからやればいいのか分からない」

という場合も多いと思います。

あまり難しく考えずに、取りあえず自分が興味を持ったものから始めればいいのですが、それだけでは余りに不親切なので、私の経験を書いてみたいと思います。

参考になるかどうかは分かりませんが、一つの例として捉えてください。

今回は行・草に関して、私の臨書遍歴を思い出してみます。


私の場合、行書は『集字聖教序』、草書は『書譜』から始めました。

この二本に決めたのには特に理由があったわけではありません。

師からの指示でした。

最初は師に折手本を書いていただいていたのですが、程無く

「こんなペースでやっていては一生かかっても埒が開かない」

と気付きます。

そこで、その後は師からの指示を待たず、自分で臨書を進めていく事にしたのです。

但し、臨書したものを師に添削してもらう事は続けました。


まずは王羲之・王献之の各帖や『淳化閣帖』で一度視点を晋に設定してから、上は魏晋から下は北宋までと決め、自分の頭の中に中国書道史の年表を想定し、大まかなポイントを定めてから、その間を少しずつ埋めていく、という形で進みました。


テキストにした影印本は二玄社『書跡名品叢刊』です。

『書跡名品叢刊』は数年前に装いも新たに復刊されましたが、私が使用していたのは当然旧版です。


ご存知の方も多いでしょうが、旧版の『名品叢刊』は新版のように時代順には並んでいませんでした。

ところが、目録は便宜のためか時代順に掲載されていたので、目録をコピーし、臨書したものにチェックをしていくことにしました。

少しずつ臨書済みのチェックが増えていくのがとても嬉しかったことを覚えています。


二王から智永、孫過庭、米元章へと続く、いわば主流となる流れをまず押さえ、その後で、張旭から懐素や顔真卿、蘇軾や黄山谷へと続くもう一つの流れを掴みました。


ここまで読んで、人によっては

「顔真卿はそんなに後回しだったの?」

と思った方もいるかもしれませんね。


顔真卿に関しては、それまで全く触れたことが無かったというわけではないのですが、私の場合、先にも書いたように臨書をしながら中国書道史の流れを把握してしまおうと考えていたので、まず二王からの流れをしっかり押さることに専念しました。

王羲之以降の中国書道史は、それぞれの羲之との距離の取り方によって考えていくと分かりやすくなりますし、その視点無しには成立しないと言っても大げさではありません。

更に言えば、中国の書は、北宋までの展開によって一通りの表現的可能性の試行錯誤が一巡します。
南宋以降というのは、北宋までの展開をもとして進んでいきますので、北宋までの流れを掴んでおかないと、その後の趙子昂、文徴明、徐青藤、董其昌、更には王鐸や傅山などの明末清初への展開が理解出来ません。


余談となりますが、最近ではいきなり明清に手を出す人も少なくないのかもしれません。

ここでお決まりの苦言を呈するつもりはありませんが、それでもやはりその方法は乱暴過ぎると言わざるを得ません。

王鐸を理解するには徐渭や董其昌を知っている必要がありますし、徐渭や董其昌を理解するためには文徴明や趙子昂を知っている必要があります。

同様に、文徴明や趙子昂を理解するためには米元章を知らなければなりませんし、米元章を理解するためには魏晋からの流れ、分かりやすく言えば王羲之からの流れを掴んでおく必要があるのです。


閑話休題。

私は魏晋から北宋までを繰り返し臨書し続けました。

「一本最低10回全臨」

というルールを決め、『名品叢刊』をテキストに臨書に明け暮れました。

当然全て形臨です。

10回という回数に理由はありません。

10回で足りる話ではないことはよく分かっていましたが、

「とりあえず最低10回」

と決めて始めました。


ついでですから、テキストを開く度に解説を読み、その書を書いた人物の生没年とその書が書かれた年を確認しました。

最低10回全臨するまでには、それこそ何十回何百回もテキストを開くわけですから、その度に確認していれば、10回の全臨が終わる頃にはすっかり覚えてしまっています。


こうして魏晋から北宋までの『名品叢刊』のうち主だったものを臨書してから、時代を下ったものへと臨書の対象を移していきました。

「主だったもの」って?

という質問が出そうですが、具体的に名前を連ねることは煩雑に過ぎますので割愛します。

臨書するかどうかの境目としては、唐で言えば、太宗や高宗はやりましたが、則天武后は見ただけで済ませたように記憶しています。


さて、今回は行・草について書きましたが、実際にはこれらと並行して楷書や隷書の臨書もしていましたので、整然と順序良く進んだわけではありませんが、大まかな流れとしては以上のようなものでした。


みなさんの参考になるでしょうか?

それではまた。

----------------------------------------------------------

初めてこのブログを読まれた方へ。

いらっしゃいませ。

あれこれ思いつくままに書いているので、書道独特の専門用語や人名などの固有名詞に関しては、その都度解説を付ける事はしていません。

初心者の方や学び始める以前の方には難解な部分も多かったかもしれませんが、お許し下さい。


「一言書いてみたいんだけど、みんなに読まれてしまうコメントに書くのは何だか気が引ける・・・」

という方や、

「何だか下手な事を書いたら説教されそう・・・」

という方、また、通信添削について御質問のある方は、下記のアドレスまで御意見御質問をお送り下さい。

誹謗中傷を目的としたような常識に反するもの以外、お返事させていただきます。

nonbirishodo@mail.goo.ne.jp


定期的にアップ出来ているわけではありませんが(正直言ってサボりがちです)、よろしかったらまた覗きにいらして下さい。
ラベル:書道
posted by 華亭 at 19:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 臨書のすすめ 全般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月10日

臨書のすすめ

これまでの記事の一覧はこちらへ
記事の一覧です

通信添削についてはこちらへ
通信添削について』

メールによる御質問はこちらのアドレスへ
nonbirishodo@mail.goo.ne.jp

----------------------------------------------------------

このブログを始めた時、どんな内容にするかは深く考えずに、タイトルどおり

「のんびりと書道の話でも書いてみよう」

くらいの軽い気持ちで始めました。

その後、他の人が書いている書道関係のブログを色々と読んでみると、教室に通ったりはせずに、自分一人で勉強している人がたくさんいることを知りました。

「書に興味があるけど、教室に通うのはどうも・・・」

という人がいるのも当然だと思いますし、そういう人にこそ、このブログを読んでもらえたら嬉しく思います。

そこで、最初の予定では考えていなかったことを始めてみたいと思います。


「臨書のすすめ」


臨書とは古典名蹟を手本にして行う練習方法のことです。

初心者の人の中には、臨書を軽く考えたりおろそかにしている人も多いですが、臨書とは極めて重要です。

「何だか遠回りをしているみたい」

と感じる人もいるようです。


教室に通うことなく一人で進める勉強の場合、一番の問題となるのが、

「視野が狭くなる」

という点です。

今の自分にとって何が足りないのかを客観的に判断する目が無いことによって、視野の狭い価値観のまま、勉強する範囲までが極めて狭く偏ったものになってしまいがちです。


そこでここでは篆・隷・行・草・楷・仮名の各体にわたって、臨書というと必ず取り上げられるであろう名品について、少しずつ紹介していきたいと思います。

ここで取り上げるものについては、初心者が好き嫌いを問題にするべきようなものではありません。

好き嫌いに関わらず

「必ず通るべき道」

とでも言うべきものですから、

「自分の好みには合わない」

などという理由で避けて通ろうとすることは、単なる「逃げ」だと思って下さい。


テキストとしては、現在最も普及していて最も入手しやすいと思われる

二玄社『中国法書選』

二玄社『日本名筆選』

をもとに話を進めますが、それに限定するわけではないので、もしも既にお手持ちの影印本があれば勿論それで問題ありません。


今回は前置きだけで終わりにします。

次回は楷書。

「楷法の極則」と呼ばれる『九成宮醴泉銘』です。

それではまた。



----------------------------------------------------------

初めてこのブログを読まれた方へ。

いらっしゃいませ。

あれこれ思いつくままに書いているので、書道独特の専門用語や人名などの固有名詞に関しては、その都度解説を付ける事はしていません。

初心者の方や学び始める以前の方には難解な部分も多かったかもしれませんが、お許し下さい。


「一言書いてみたいんだけど、みんなに読まれてしまうコメントに書くのは何だか気が引ける・・・」

という方や、

「何だか下手な事を書いたら説教されそう・・・」

という方、また、通信添削について御質問のある方は、下記のアドレスまで御意見御質問をお送り下さい。

誹謗中傷を目的としたような常識に反するもの以外、お返事させていただきます。

nonbirishodo@mail.goo.ne.jp


定期的にアップ出来ているわけではありませんが(正直言ってサボりがちです)、よろしかったらまた覗きにいらして下さい。
ラベル:書道
posted by 華亭 at 15:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 臨書のすすめ 全般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする