2015年10月17日

「文字」と「形」の問題。

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前回と同様に、今回の話、普段の教室では色々な方達に繰り返し話し続けているので、てっきりこのブログでもさんざん書いてきたとばかり思い込んでいたのですが、通信添削を受けていらっしゃる方から以前御指摘を頂戴しまして、「書いてきた」というのはどうやら私の思い違いだったようなので、今回は改めてちゃんと書いておこうと思います。

これまでに触れた事のある内容と重なる部分も多々あるかもしれませんが、改めて内容をまとめ直し、という事で何卒御容赦ください。

因みに今回の内容は、以前触れた文字認識と図形認識に絡むお話です。


さて、やっと本題。

私は初学者の皆さんにとっての大きな問題の1つは、手本の字を「文字」として捉えてしまう事だと考えています。

そう言われても、

「字を『文字』として捉えるなんて当たり前の話だろ?」

と思われる人が少なくないのかもしれません。


結論から言うと、

字を「文字」としてではなく、「形」として捉える事が出来るかどうか、これが極めて重要だと思います。

私の指導経験上、この「形」として捉える感覚というのは、私から何も言われなくても最初から身に付けている人もいれば、何十年やってもなかなか身に付かない人もいるようです。


しかしそもそも「文字」の見た目を形作っているのは、それこそ文字それぞれが持っている「形」のはずです。

にも関わらず何故、人は「文字」を「形」としてではなく「文字」として認識するのでしょう。


文字それぞれが本来持っている「形」を単なる形ではなく「文字」として分け隔てているのは、他でもない人間自身の認識です。

例えば「あ」という文字を100人に書いてもらうと、実際には100通りの形を持った「あ」が出来上がるわけですが、私達はそこに顕れているはずの100通りの形の違いは無いものの如く、同じ「あ」として認識します。

これは、様々な種類の犬を見ながらも、ひとまとめに抽象化された「犬」として認識するのと似ていて、100通りの形を見ながらも、ひとまとめに抽象化された「あ」という文字としての認識です。(文字認識)

この観点からすると、字を「文字」としてではなく「形」として捉える、というのは、ひとまとめに抽象化された「あ」としてではなく、100通りの「あ」として捉える、という事に他なりません。(図形認識)


それでは何故、そんな必要があるのでしょうか?


たとえそれが無意識であったとしても、手本の字を「文字」として捉えてしまうと、本人がいくら「手本そっくりに書こう」などと思いながら手本を見ていても、実際には、あくまで「文字」としての「あ」として捉えているに過ぎない、という状態になります。

この状態では、100通りの「あ」が持っているはずの100通りの形を、それぞれ別々のものとしては認識しようとしません。

早い話が「読んでいる」に過ぎない状態です。

そして、ここが厄介なところですが、「文字」として捉えられた手本の「あ」は、それを書く際にも無意識のうちに、「文字」として捉えた感覚のままに「文字」としての「あ」として書かれてしまう事になるのです。

そうなると、既に自分の中に出来上がってしまっている「文字」としての「あ」の字形が、手本の字形とは関係無く出てきてしまうのです。

これでは手本を見ている意味がありませんね。


「いつまで経っても癖字が直らない」

と嘆く人がいますが、これもその典型的な症状です。

このような人の場合、文字認識でしか字を見たり書いたりしていません。

癖字を直す、という問題については、「癖字を直す」という意識ではなく、「癖字とは別の字形を新たに覚え直す」という意識がとても重要なのですが、それも、字を見たり書いたりする時に、「文字」としてではなく「形」として扱う、という意識を持てるかどうかにかかっています。

敢えて表記を区別すれば、「見たり書いたり」ではなく、「観たり描いたり」といった感じですね。


と、ここまで書いてきましたが、今回と同様の内容、やっぱりどこかで書いたような気がしたので探してみたら、、、

ありました!


形の話。その2」の回で、「ま」を例に挙げて説明しています。

う〜ん、完全にネタがかぶってしまいました(汗)

でもまぁ、せっかく書いたので、ボツにするのも勿体ないし(笑)、このままアップしてしまいましょう。

というわけで、「形の話。その2」の回を改めて読んでみて下さい。

それではまた。

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初めてこのブログを読まれた方へ。

いらっしゃいませ。

あれこれ思いつくままに書いているので、書道独特の専門用語や人名などの固有名詞に関しては、その都度解説を付ける事はしていません。

初心者の方や学び始める以前の方には難解な部分も多かったかもしれませんが、お許し下さい。


「一言書いてみたいんだけど、みんなに読まれてしまうコメントに書くのは何だか気が引ける・・・」

という方や、

「何だか下手な事を書いたら説教されそう・・・」

という方、また、通信添削について御質問のある方は、下記のアドレスまで御意見御質問をお送り下さい。

誹謗中傷を目的としたような常識に反するもの以外、お返事させていただきます。

尚、「この草書で書かれた文の読み方を教えて欲しい。」「この古典の訳を教えて欲しい。」といった主旨の御依頼は受けかねますので、何卒御了承下さい。

nonbirishodo@mail.goo.ne.jp


定期的にアップ出来ているわけではありませんが(正直言ってサボりがちです)、よろしかったらまた覗きにいらして下さい。
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2015年10月14日

余白に対する意識。

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今回の話、私にとっては改めて意識する事など無いくらいにいつの間にか当たり前のようにやっていた事なので、師に教わったわけでも何かを読んで身に付けたわけでもありません。

なので、世の中の書の先生達がどのように考え、どのように教えているのか、そもそもこんな話をするのかしないのか、といった事についても実は全く分からないのですが、私の中では極めて重要なポイントだと思っている部分なので、普段の教室でも、このブログの通信添削でも、頻繁にしている話です。


例えば「口」という字を手本を見ながら書く時を考えてみます。

「口」その1-1.jpg


皆さんの場合、手本を見ながら1画目から順番に「太さは?角度は?長さは?」と筆線に意識を向けながら書くと思います。

当たり前ですよね。

当たり前なんですが、私の場合、ちょっと違います。


手本を見たら先ず、筆線に囲まれている余白の部分(黄緑の部分)に意識を向けて、手本の余白の形と大きさをしっかりと掴みます。

「口」その1-3.jpg

そうしたら、今から自分が書く(まだ白いままの)紙面の上に、手本から掴んだ余白の形と大きさをはっきりとイメージします。
「口」その1-2.jpg


それから今度はその紙面にイメージした余白を「線で囲いこむ」つもりで書いていく、といった感じです。

勿論、「線」とは言っても筆線には形がありますから(「形の話」の回参照)、形を持った筆線で囲いこむ事になります。


どうでしょうか?

皆さんとは意識の仕方が反対と言うか裏返しと言うか、とにかく違うのが分かるでしょうか?

例えば1画目で言えば、私が気を付けているのは「1画目の長さ」なのではなく、「余白のAの長さ」なのです。
「口」その1-4.jpg

「同じ事だろう?」

と思われるかもしれませんし、確かに結果としては同じ部分の長さを意識している事に違いは無いのですが、その意識の中身はまるで違います。

皆さんの場合は、1画目、2画目、3画目、と書き進み、その結果として余白が浮かび上がる、という事になるわけですが、私の場合は余白ありき、書く前に既にその形も大きさも決定している、という事なんです。

皆さんの場合、この辺りが曖昧なままに書き始めてしまうので、書き上がった時に、

「口」その2-1.jpg


このように、外形は大体同じでも、よく見ると余白の形が全然違う、という事が起こりがちなのです。


今回の話、実は随分前に「書譜」の回で同様の内容についてほんの少しだけ触れています。

少しだけではありますが触れていますし、普段の教室や通信添削で余りにも日常的に「ここの余白を手本と比べてみましょう」といった話をしているので、とっくにきちんとした内容として記事にしてあるとばかり思い込んでいました(汗)

今回は説明の為に「口」を例に挙げたのでとてもシンプルな話でしたが、実際にはこれ程シンプルにいく時ばかりではありません。

しかし、私の場合にはありとあらゆる箇所に関して、線の部分ではなく線によって生まれる白い部分に対するこの感覚が働き続けています。

と言うよりも、私にとっては「字を書くというのはそういうものなのだ」と言える程に当たり前な話ですし、「それを抜きにして書けと言われても無理」と思える程に体の芯まで染み付いてしまっています。

これが良い事なのかどうか、正直に言うと私にも分かりませんが、この感覚が抜け落ちているが故になかなか上達していかない、というケースを指導の現場で数多く見てきたので、ここで改めて触れてみる事も無駄ではないように思い、今回の話となりました。

参考になりましたら幸いです。

それではまた。

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2012年10月22日

原寸大臨書について

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先日通信添削についてのお問い合わせを頂いた方から

「初心者が原寸大臨書をやる事についてどう思いますか?」

といった内容の御質問を頂きました。

このブログの読者の皆さんの中にも同様の疑問を持たれる方がいらっしゃるかもしれません。

この辺りの話については、普段の教室や通信添削では色々な場面で何度も話してきているので、てっきりこのブログでも書いたとばかり思い込んでいたのですが、どうやらきちんと書いた事がなかったようですね。

せっかくなので、私の考えについて書いておこうと思います。

実はやっぱり何処かに書いてあるのかもしれませんが、正直な話、過去記事全てを読み直したわけではないので、もし見付けた人も殊更に指摘のコメントをしたりせず、黙ってそのまま見なかった事にしておくのが大人のマナーというものですね(ウソ)


さて、結論から言えば、初心者の方には原寸大臨書はお勧め出来ません。

何故でしょうか?


先ずは半紙4文字大に書く場合を考えてみます。

このくらいの大きさですと、例えば自分の書いたものが手本よりも長くなり過ぎたり短くなり過ぎたりした時、その違いはすぐに数センチの違いとして顕れますから、この数センチという違いであれば、初心者でも自分自身で「違い」として認識する事が可能です。

そしてその認識の上で、その数センチの違いを修正していこうとする事も出来ます。

尤も、以前にも書いたとおり(「元を辿ろうにも」の回参照)、私に指摘されてすら尚その違いがなかなか実感出来ない、という場合も少なくないというのが実情なのですが、それでも手本と自分が書いたものとを重ねたりすれば、「あ〜なるほど。確かに随分違ってる。」と思ってもらう事は出来ます。


ところが、これが原寸大のような大きさ(小ささ)になってしまうと、途端にその違いが1ミリあるかないか、という微細な話になってしまいます。

すると、仮に私にその微細な違いについて指摘されたとしても、その1ミリあるかないかの違いが実質的にはどれ程「大きな違い」であるのか、という事が初心者には実感認識出来ないのです。

何といっても見た目には1ミリあるかないかの違いにしか過ぎません。

数センチの違いですらなかなか気付かないのですから、1ミリあるかないかの違いに気付けと言われても、それは無理な話というものですし、ましてやそれを「大きな違い」として実感認識しろと言われても、全くピンとこないでしょう。

となると、この微細な(実質的には極めて大きな)違いについて、自分自身でしっかり実感認識したその上でそれを修正していく、などという事は、初心者には至難の技ですし、更に正直に言えば殆ど不可能な話なのです。


世間に溢れているボールペン字講座(通信は特に)に対して私が極めて否定的な意見を持っているという事については、このブログの読者の皆さんはお気付きだと思いますが、その理由の1つがこれです。(他にも理由はありますが、その話を始めると際限無く話が脇道に逸れてしまうのでここでは触れません。)

一般的なボールペン字の手本の字粒と比べると、例えば『九成宮醴泉銘』などの字粒は随分と大きなものになりますが、その大きさですら無理なのです。

更に小さい字粒に対しての0.数ミリの長さや位置の違いについて、しっかり実感認識した上でそれを修正していく、などという事が、ボールペン字を習い始めたばかりの人達に出来るわけがありません。

そんな事が出来るくらいなら、世の中の人は皆とうの昔にきれいな字が書けるようになっていますよ(苦笑)


閑話休題

原寸大臨書についてはもう1つ、筆の扱いについても先程の話と同様の問題が起こります。

私は普段、教室でも通信添削でも、筆のバネが効いた線(私は立った線と表現します)が引けているかどうか(引けるようになるような正しい練習をしているかどうか)という事を何より最重要視して指導しますが、この「筆のバネ」を身体(筆を持っている指先)で体感するという事自体、初心者の人達にとってはそう簡単な事ではありません。

半紙4文字大を書くには一般的には4号程度の太さの筆を使う事が多いと思いますが、その程度の太さの筆で半紙に4文字大程度の大きさを書く時ですら、筆のバネを体感しながらというのは初心者の人達にとっては簡単ではありませんし、実際に「立った線」をある程度体得出来るようになるまでには、どんなに早い人でも数ヶ月〜半年、人によっては数年間という時間が必要です。

それを原寸大で書くような細さの筆でやろうとする場合、当然の事ながら筆が細くて書く字が小さい分だけ極めて繊細なコントロールが要求されます。

初心者の人達がいきなりそれをやろうと思っても、結局いつまで経っても「筆のバネが体感出来ない」という事になり、結果、いつまで経っても「立った線」というものが理解体得出来ない、という事になってしまうのです。

それこそ気付かない人は何十年経っても気付きません。


以上の理由から、私は初心者の人達には原寸大臨書をお勧め出来ないのです。


今回の話からすると、当然漢字だけではなく仮名でも全く同じ事が起こります。

一方で私の通信添削では仮名の場合には基本的に原寸大臨書という事でお願いしているのですが、これは、

筆を持ったばかりの人がいきなり仮名の原寸大臨書をやろうとする事は殆どない、というのが実情。

大抵の場合、大きな字から小さな字へと段階的に練習を積んできた人が更なる段階として原寸大臨書に取り組む、という場合が殆ど。

もともと仮名を学ばれている方は原寸大への指向が極めて強く、「あの古筆を書けるようになりたい」といった憧れや希望を持っている人が多い。

という理由から、仮名の場合には基本的には原寸大臨書で、という事でお願いしています。(但し、私から見て「この人にはまだ無理」と判断した場合には、原寸大臨書はひとまず止めてもらっています。)


それから今回の話というのはあくまで、

「初心者がいきなり原寸大臨書をやる事には無理がある。」

という話であって原寸大臨書そのものを否定したものではありませんので、そこは誤解しないようにお願いします。

「臨書は原寸大で」といった考え方を持った人がいる事は当然私も知っていますし(金田心象氏などが有名ですね)、原寸大臨書の重要性も十分理解しています。

長年書を学んでいながら原寸大臨書をやった事がない、という人に対しては、「それは如何なものか」と苦言を呈したくもなります。

ただ、初心者がいきなり、という事にはやはり賛成出来ないのです。

色々な考え方があるでしょうが、その中の1つとして、今回の話も聞いて頂けたらと思います。

それではまた。
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2012年05月07日

元を辿ろうにも

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早速前回の続きですが、前回の話というのは、実は指導する側の極めて楽観的な前提の上にしか成り立ちません。(これが前回の最後に触れた「難点」です。)

書いた本人が「大きくなり始めている部分」を自分自身で見付け出せる。

という前提です。

ところが残念な事に、この前提はあまり(と言うか殆ど)期待出来ません。

何故でしょうか。


初学者の場合(実際には初学者に限った話ではないのですが)、そもそも自分が書いたものが手本よりも大きくなっているのかどうかの判断が付かない、という事が少なくないからです。

自分が書いたものが手本よりも大きくなっているのかどうかが分からないのだとすると、前回の理屈に沿って「そもそもの原因」を探り出そうという私の提案自体、無理な相談という事になってしまいます。

「大きくなっているのかどうかが分からないなんて、そんな事はないだろう。手本と見比べれば分かる事じゃないか。」

と思われるかもしれませんが、ちょっと待って下さい。


例えば私がAさんの書いたものを添削する際、

私「この1画目が長くなっていますね。」

A「はぁ…」

私「(長過ぎる部分に朱墨で印を付けながら)このくらい長いですよ。」

A「う〜ん…そうですか…」

と、こんな感じで指摘されても尚、長過ぎている事が実感出来ない人、ホントに多いんですよ。

「そんな話、信じられないよ!」

と思うかもしれませんが、考えてみればこれは至極当然の話で、書いた本人にしてみれば、それを書いた時には「手本と同じ長さ」にしようと思いながら、自分が「手本と同じ長さ」と感じた長さを書いたのですから、「手本と同じ長さで書いたはず」のそれを見て、「長過ぎる」と自分自身で気付くというのは、実はそう簡単な事ではないのです。


さぁ困りました(苦笑)

このままでは私の得意な屁理屈も、ただの机上の空論に終わってしまいますね〜(笑)


さっきのAさんとのやりとりというのは普段教室で日常的に見られる場面の再現ですが、このやりとりには続きがあります。

A「う〜ん…そうですか…」

私「あんまりピンときていないようですね。それならこうすればどうですか?」

A「あ〜ホントだ!随分長いですね。」


さて、私は何をしたのでしょうか?

答は簡単です。

Aさんが書いたものを手本と重ねてみたのです。

離れている両者を見比べているうちはなかなかその違いに気付かないAさんも、重ねてみればその違いは正に一目瞭然。

「なるほどね〜!」

となるわけです。

ただ見ているだけでは分からないというのなら、書いたものを適当に折って自分が書いた1画目が手本の1画目のすぐ側に並べられるようにしたり、両者を定規で測ってみたり、とまぁ、具体的な方法は何でも良いのですが、とにかく両者の違いが一目瞭然で分かるような、つまりは自分自身でも客観的な判断が出来るような工夫が必要なんですね。

ついでに言えば、その工夫によって、私の話も机上の空論とならずに済みますし(笑)

「なぁ〜んだ。そんな単純な事か。」

と思った人もいるはずですが、それなら皆さん、普段本当に「そんな単純な事」を当たり前の事としてやっていますか?

ホラ、怪しいでしょ?


確かに「工夫」などと大袈裟に言う程の事ではありませんし、

「こんな事までいちいち言われないと思い付かないのかなぁ…」

といった感じで少々ウンザリなのが私の本音です。

本音ではあるのですが、本人を目の前にしては言えませんし(苦笑)、多くの人が「そんな単純な事」をちっともやっていないというのが私の見てきた実情だったりするのです。

さぁ、皆さんも早速手本と重ねてみましょう。

ただ見ているだけでは気が付かなかった様々な事が見えてくるかもしれませんよ。

何だか最後は愚痴混じりになってしまいましたが、こんな話でも皆さんのお役に立てば幸いです。

それではまた。
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2012年05月05日

元を辿れば

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連休にも関わらず、毎年この時期は中途半端に仕事があるので思いっ切り遊びに行くわけにもいかず、家族の視線がやけに痛い父親のブログへようこそ。


物事には大抵の場合、原因と結果があるわけですが、書の場合でもこれは当てはまり、しかも非常に明確な形で顕れます。

書の場合の結果とは、言うまでもなくあなたが書いたものですね。


例えば、今あなたが手本を見ながらなるべくそっくりになるように頑張って書いたとします。

その結果、

「何だか違う…」

という事になった時、そこには必ず原因があるはずです。

その原因を正確に把握しないままに次の1枚を書いてみたところで、その結果は

「…やっぱり何だか違う…」

と、先の1枚と同じ事が繰り返されるだけで、それは見るまでもありません。

この辺りの話はこのブログで何度も繰り返してきましたが、そうならないように、あなたは

「一体何処が違うの?」

と、紙に穴が空きそうなくらい手本と自分が書いたものとをよ〜く見比べますよね。(ますよね?)

その時に重要なのが、

「何処に原因があるのか」

を見定めようとする意識です。


皆さんの場合、只単に「何処が違うのか」という視点で見てしまうために、知らず知らずのうちに「原因」ではなく、その原因によって導かれた「結果」にばかり目がいってしまっている、という事になりがちです。

しかし(当たり前の話ですが)原因となった点が改善されなければ、その結果もやはり改善されてはくれません。

先ずは原因があって、その結果として次がこうなり、そのまた結果として更なる次がこうなって、という具合に、物事は時の推移の順番に、1つ前までの事象を原因とする結果の積み重ねとして起きるのですから、とにもかくにも「そもそもの原因」にまで遡らなければなりません。


「それなら具体的にはどうすればいいんだ?」

という声が聞こえてきますが、実はそれほど難しい話ではありません。

筆順の早い部分から注目していくように意識してみて下さい。

例えばあなたの書いたものが手本よりも大きくなっていた場合、その原因は最初の数画目までにある事が殆どなのですから(「最初の一歩」の回参照)、それ以降の部分をどれ程手本と見比べてみても、それは「結果」のみを見比べている事にしかならず、「そもそもの原因」はいつまで経っても見付からない、という事になってしまいます。

仮に今、10画目まである字の1画目に「そもそもの原因」があったとすると、あれやこれやの結果が積み重なった挙げ句の10画目をいくら手本と見比べてみてもあまり意味が無いのです。

ですから、それこそ1画目から、目を皿のようにして手本と見比べてみる必要があるのです。


すると、手本よりも大きくなり始めている部分が見付かるはずです。

初学者の場合、大抵1〜2画目だと思いますが、この大きく「なり始めている」というのがポイントです。

つまり、その「大きく『なり始めている』部分」こそが「そもそもの原因」なのですから、次の1枚を書く時には、先ずは何よりそこに意識を集中して書かなければなりません。


お気付きの方もいるでしょうが、今回の話、「最初の一歩」の回の話の裏返しです。

つまり、書く際には最初の数画をとにもかくにも気を付けて書くのですから、書いたものを見直す時にはその反対、先ずはそれがしっかり出来ているかどうかを見直すわけです。

只漠然と「何処が違うの?」と眺めていたのでは駄目ですよ。


さぁ、「そもそもの原因」を探し出せたなら後はもう大丈夫ですよね?(ですよね?)

このブログで再三繰り返してきた「書く前の意識」をしっかり持って、次の1枚を意味の有る1枚にしましょう。


と、ここまで話を進めておいて根底からひっくり返すようですが、今回のこの話、実は大きな難点があります。

それについては次回に。

それではまた。

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2010年12月09日

手本と行間の関係

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たまにはもう少しまともに書に関係した話をしないと、ホントに何のブログか分からなくなりそうな雰囲気なので(笑)、今回は行間について真面目に考えてみたいと思います。


別に難しい話をしようと言うのではありません。


例えば半紙に6文字書く場合を考えてみましょう。

字間(縦の字と字の間)は皆さん何も言わなくても比較的意識出来るんです。

何故なら字間が拡がり過ぎると一番下の3文字目が窮屈になったりしますし、反対に狭過ぎると3文字目の下に空間が余ってしまったりするからです。

つまり、自分でも失敗に気付きやすいんですね。


ところが行間の場合こうはいかない人が少なくありません。

広過ぎたり狭過ぎたり、となってしまっても、なかなかそれに気付きにくいようです。


原因は幾つか考えられますが、初学者の場合で最もありがちなのは、手本の見方です。

見方と言うよりは、「手本の使い方」と言った方が適当かもしれません。


今、説明の為に便宜上、半紙に6文字書く場合の1文字目から、1・2・3・4・5・6と番号を付けておきます。

6文字書き終わった時には半紙右半分には上から1・2・3、左半分には上から4・5・6と並びますよね。(文章にすると何ともややこしいですが、大丈夫ですか?)


さて、これは手本の形態にもよりますが、例えば半紙に書かれた手本やB4の紙などにコピーされた手本を使う場合、皆さんそれを縦半分に折ってから使ったりしませんか?

先ずは1・2・3を見て、そこまで書いたらひっくり返して4・5・6、となるように。

その方が、特に4・5・6を書く時に、手本の4・5・6の部分が自分の半紙のすぐ横に置けて見やすいからです。


この事自体に問題はありません。

手本をなるべく自分の紙の近くに置いた方が見やすいのは当然の話ですから。

だから手本を折っちゃダメ、という話ではありません。(先生によってはダメという人もいるのかもしれませんが、私はOKです。)


問題はですね。

最初に手本を縦半分に折る前に、広げた状態でちゃんと1・2・3と4・5・6の間、つまりは行間がどうなっているのかを全く確認しない事なんです。


「え〜っ!?そんな人いるの?」

と思う人もいるかもしれませんが、初学者の場合、このような人が非常に多く見られます。

しかもこのような人の場合、最初に折ったが最後、手本が開かれる事は2度とありません(笑)

つまり、手本の行間は1度も確認される事がないままなのです。


ほらほら、思い当たる人、いませんか?


これでは自分が書いたものの行間が広いとか狭いとか、そんな事に気付く(気付ける)わけがありません。

そもそも手本の行間を全く見ていないんですから。


今回は最も単純な例を挙げましたが、それですら初学者の場合にはホントに極めて頻繁に起こる問題なんですよ。


話が行間から離れてしまいますが、今回の話と全く同じ原因で起こる問題として、行の1番上の字の高さを確認しない、という事も、初学者の場合、行間の場合と同じような頻度で起こります。

例えば1と4の頭の高さが揃っていたとします。

それを確認しないままに手本を折って書いてしまうので、自分が書いたものの1と4の高さが違ってしまったとしても、その事に気付かないのです。

これも思い当たる人がいるはずですよ。


話を行間に戻しますが、今回挙げたような単純な例の段階で、行間をしっかり意識する事を「当たり前」の事として身に付けておかないと、3行以上に行が増えたり条幅のように紙が大きくなったりした時に、同様の問題が更にひどい状態として起こります。


要は書く前に手本の行間に目が向くか否かという事なので、今回の話もいつもの「筆を持つ前の意識」の問題という事になりますが、だからこそ余計に、初学者の場合にはうっかりしやすいようです。

手本は折っても構いませんから、くれぐれも行間の事を忘れないで下さいね。

書は字が書いていない空白の部分も含めて書なのですから。


今回はここまで。

少しは書のブログらしくなりましたかね(笑)

それではまた。

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初心者の方や学び始める以前の方には難解な部分も多かったかもしれませんが、お許し下さい。


「一言書いてみたいんだけど、みんなに読まれてしまうコメントに書くのは何だか気が引ける・・・」

という方や、

「何だか下手な事を書いたら説教されそう・・・」

という方、また、通信添削について御質問のある方は、下記のアドレスまで御意見御質問をお送り下さい。

誹謗中傷を目的としたような常識に反するもの以外、お返事させていただきます。

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2010年01月13日

所要時間に於ける違いについての考察

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以前「たかが距離、されど距離」の回でも書きましたが、皆さん普段練習する時には、半紙や半懐紙などの大きさでの練習が中心という人が多いのではないでしょうか?

その一方で、いざ展覧会への出品作品となると、半切や更に大きいニ尺×八尺(以下ニ八)といった大きさに書く事もあるかと思います。

まぁ半切くらいなら、教室での月例課題等の為に、日常的に書く機会もあるのかもしれませんね。


今回考えてみたいのは、普段書いているものと展覧会等への出品作品とでその紙の大きさが全く異なる場合の、両者に於ける

「一枚書くのに要する時間」

の違いに起因する問題についてです。


たかが距離、されど距離」の回では半紙と半切以上とを例に挙げ、両者に於ける「作品とそれを見る人との距離」についての考察を行いましたが、今回の問題は時間の違いに起因していますから、仮に普段と出品作品等とで紙の大きさが変わらずとも、そこに要する時間の大きな差異があるようなものを書く場合には、やはり今回の話に当てはまります。

但し、紙の大きさが違うとして話を進めた方が具体的にイメージしやすいでしょうから、今回は半紙とニ八とで考えてみましょう。


普段の練習では半紙に6文字大で書いているとします。

この場合、書体によっても違いますが1枚書くのに要する時間は数十秒から数分といった感じでしょうか。

これに対して二八では書く文字数が半紙の時より増える場合が多いはずですから、単純に文字数からのみ考えても、1枚書くのに要する時間は半紙の場合よりも長くなるでしょう。

それこそ数十から百を超えるような文字数を楷・隷・篆といった書体で書く場合、1枚書くのに2時間かかるような事も珍しくないはずです。


ここで問題になるのが、例えば1枚書くのに2時間かかる二八を書こうとする時、普段半紙に書いている時の集中力では役に立たない、という事実です。


「半紙での練習を2時間続けてやれば同じ事だろう。」

と思うかもしれませんし、費やす時間という意味では確かに同じようですが、やはりこの両者には歴然たる違いがあります。


一番単純な話として、半紙なら

「あ!間違えた…」

となっても簡単に

「もう1枚。」

と思えますが、二八の場合、なかなかそう簡単にはいきません。

極端な話、2時間かかって書き進めてきて最後の1文字で間違えでもしたら、目も当てられませんよ(苦笑)


その他にも、二八の場合には書く際に留意すべき点が半紙の場合と比較して桁違いに多くなります。

しかもそれらについての極めて高い意識を持続しながら2時間書き進めなければなりません。

それを実現する為には、体力的にもやはり半紙で2時間書くのとは別種の体力が必要になると言ってよいでしょう。


半紙に6文字大書く場合を陸上競技の短距離走に例えたとすると、2時間かけて書く二八はマラソンのようなものですから、短距離走の練習を2時間するのとマラソンの練習を2時間するのとでは、同じ2時間でもその内容は必然的に違うものになるでしょう。

マラソンには短距離走には無い、長時間に対する「持続力」という要素が求められるからです。


つまり、2時間かかる二八には2時間かかる二八ならではと言うべき要素が心身共に要求されるのです。

そして肝心な事は、

「2時間かかる二八を書く為のそれは、実際に2時間かけて二八を書く事でしか得られない」

という点です。


ですから普段半紙での練習しかしない人が、展覧会に出すからといって付け焼き刃で2時間かかる二八を書いてみても、

「2時間かけて二八に書く」

という行為そのものに慣れるまでに時間がかかってしまい、実際の書の出来にまで話がなかなか到達しないうちに締め切り期日がきて時間切れ、という事になってしまうわけです。


思い当たる人、いませんか?

半紙の達人が二八でも同じようにいくかと言うと、話はそれ程単純ではないのです。

あのボルト選手も、世界一足が速いと言ってもマラソンでも世界一というわけにはいかないですよね。

それと同じ事です。


ですが逆に言えばこれは慣れの問題に他なりません。

普段半紙を書く時には何故臆する事なく書けるのか?

それは慣れているからです。


それなら2時間かけて二八を書く事にも慣れてしまえば良いわけです。

毎日とはいかなかったら1週間に1度でも、それも大変なら1ヶ月に1度でもいいから、実際に二八を2時間かけて書いてみるのです。


この時大切なのは、書いている途中で誤字脱字等の致命的な失敗をしてしまった場合以外、

「あ!上手くいかなかった!」

と思っても、そこで止めてしまわないで最後まで書き通す事です。

書き通す事によってこそ、色々な意味での感覚が、つまりは体が

「2時間かけて二八を書く」

という行為に慣れていくのですし、書き通すからこそ気付く事が出来る部分もたくさんあるからです。

ですから最後まで書き通して下さいね。

こういった事を続けていれば、いざ展覧会への出品作品を書く時になっても、慌てずに済むでしょう。


普段やっていない事にも関わらず、出品作品だからといってやってみたところで、突然出来るわけがないんですよ。

それを承知で、展覧会への出品を「普段は書かない二八を書く機会」として捉えている、という考え方もあるでしょうが、それはまた別の話ですから。


さて、今回もいつもの如くここまで実に当たり前の話をしてきましたが、

「当たり前であるのなら、その上で実際にそれに対処すべく普段から何かしているのか?」

と問われたら、

「特に何もしていない…」

と答えざるを得ない人、多いのではないでしょうか。


今回は時間にフォーカスして話を進めましたが、同様の慣れの問題については「書く字の大きさ」等の違いでも起こります。

これについても機会があったら改めて書くかもしれませんが、今は皆さん自身で自分の場合に当てはめて色々と考えてみて下さい。


今回はここまで。

それではまた。

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2009年12月19日

体幹の重要性

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いや〜、またやってしまいました…

話を途中にしたまま随分とサボりましたね(汗)

「アップしなきゃ…」

と思いつつ、ついつい明日に先伸ばし、気にはなりつつもそのまんま。

まるで山積みの夏休みの宿題をやらないまま毎日を過ごしている小学生のような心境でしたよ(笑)


さすがにこのままでは年を越えてしまう、と焦りだし、今日のアップとなりました。


さて、言い訳はこのくらいにして本題にいきましょう。

前回まで「字の体幹」についての話をしていたんですが、皆さん覚えてますか(汗)

忘れちゃった人は前回までを読み返して思い出して下さいね。

それを踏まえた上でこれを見て下さい。

いきなりハイレベルな例ですが、徐々にいくよりも話が早いと思ったので。

『憶旧遊詩巻』ズレ無し


これは以前「試食」のカテゴリでも取り上げたことのある黄庭堅の『李白憶旧遊詩巻』からの一部です。(「空間交錯」の回参照)

この1行、1つとして真っ直ぐに書かれている字がありませんよね。


「確かにみんな曲がってる・・・」

という程度なら初学者の皆さんにもすぐに感じてもらえると思うのですが、分かりやすくそれぞれの字の体幹に赤い線を引いてみました。

『憶旧遊詩巻』線有り


この赤い線をよく見てもらうと、行前半は字の体幹が右に傾く事によって行が左に張り出すように流れ、「霞」の体幹の湾曲を境にして、行後半では字の体幹が左に傾く事によって行が右に流れ、その結果として行全体が湾曲しています。

水色の線が行全体の湾曲の流れを表したものです。


そして、その湾曲した行全体の流れを受け止める位置に、「上」が書かれているのです。

この「上」の位置が実に絶妙である事が分かるでしょうか?

これ以上右であっても左であってもダメで、それでは上からの流れを受け止める事が出来ません。


試しに「上」の位置をずらしてみたので比較してみて下さい。

『憶旧遊詩巻』左ズレ  『憶旧遊詩巻』右ズレ


上図2図のうち、左が「上」を左にずらしたもの、右が「上」を右にずらしたものですが、どちらも「樓」までの行の流れから外れてしまっていて、それまでの流れを受け止める事が出来ていないという事が分かるでしょうか。

行の流れが行き場を失っていると言っても良いかもしれません。

それ程にこの行に於ける「上」の位置は重要なのです。


今回の例の様に行を自由自在に湾曲させる為には、どうしても字の体幹が見えていなければなりません。

でなければ「上」を左過ぎず右過ぎず「正にその位置」といった位置に書く事など出来ませんし、そもそも、それまでの行の流れを作り出す事すら出来ません。

このような事を可能にする為には字の体幹に対する感覚を磨いていく事が絶対条件になりますし、それには前回までの話のように、先ずは真っ直ぐ書けるように努める中で、その感覚を磨いていく、という道程が近道なのではないか、と私は考えるのです。


例えばこの1行を臨書する事を考えてみましょう。

その際、上記のような字の体幹の変化や行の流れについてしっかりと見えているのかどうか、それが先ずは何よりも問題です。

これはいつもの話と同様に、実際に筆を持って書く前の段階の問題ですね。

それに気付かないまま只闇雲に臨書してみても、肝心な部分がすっかり抜け落ちたままになり、結局は書いた本人が「臨書したつもり」になっただけ、という結果になってしまいます。

それでは困りますよね。


どうですか?

字の体幹って大事でしょ。


今までこのような話は意識した事の無い人もいるでしょうが、今回を機会に是非是非、そのつもりで手本なり法帖なりを穴が開く程にじっくり観察してみて下さい。

それまで見えていなかった色々な事が見えてくる筈ですし、そこにはこれまであなたが気が付いていなかった書を見る面白さの一端といったものも隠れているのではないかと思います。


さて、今回の話で少しは「字の体幹」について分かってもらえたでしょうか?

年を越してしまう前にアップ出来てホッとしました。

やっぱり画像を使った説明は準備が面倒でキライです(苦笑)


今回はここまで。

次回は何の話にしましょうか。

それではまた。

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2009年11月18日

先ずは真っ直ぐ

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前回まで4回に亘り、「真っ直ぐ」というテーマで「如何に真っ直ぐ書くか」について考えてきました。

前回の最後にも書きましたが、皆さんの中には

「それにしても、いちいちこんな面倒臭い事を意識しながら書かなければいけないの?」

と思った人もいるでしょう。


元も子も無い言い方になりますが、いちいち意識しなくても真っ直ぐ書けるのであれば、あのような面倒な理屈など一切考える必要はありません。

私自身が書く時にも、あのような理屈は一切意識せずに書いているのですから。

「無意識のうちに意識している」

という方が適当かもしれませんが、とにかく理屈ありきで書いているのではありません。(「理屈って本当にいらないの?」の回参照)


しかし、仮に皆さんの中で、

「真っ直ぐに書きたい。」

と思っているにも関わらず、真っ直ぐ書けない人がいるのだとすれば、その人にとっては、先ずは理屈に則って書いてみるというのも物事の道程の一つだと思いますし、理屈を意識しなくとも書けるようになる為にするのが練習なのではないかとも思います。

その意味で、無味乾燥した極めて理屈っぽい内容になってしまう事を承知の上で、しかも技法的な内容はなるべく避けてきたこのブログで、敢えてあのような話を続けてきたのでした。


更に言えば、実はその先を見越した上での序章としての意味も込めていたのです。

実は「真っ直ぐ書く」というのは私の言いたい本当のテーマではありません。


本当のテーマとは、

「字の体幹」

です。


この「字の体幹」という表現、「都」の説明の時に1度だけ使いましたが、これは私が勝手に使っているだけで、そんな専門用語があるわけではありませんので念の為。


さて、この「字の体幹」に対する感覚は書体の別に関わらず、必ず体得しておかなければならない感覚です。

真っ直ぐ書く事の是非については触れずに前回まで話を続けてきましたが、実際のところ古典古筆を見てみれば分かるとおり、字一つをとってみても、以前「ずれてる?」の回でも見たように素直に真っ直ぐ書かれているものの方が稀だと言っても過言ではありませんし、只真正面を向いているだけに思える小篆のような書体ですら、この感覚が無ければ書いたものが真正面を向いてくれません。

ですからそれこそ古典古筆のように字を傾かせつつバランスを保ったり、行を左右に流したり、といった事が自由自在に出来るようになる為には、字の体幹を見極める感覚は必要不可欠なものになりますし、その体得の為の第一段階として私が考えるのが、「真っ直ぐ書けるようになる」という事なのです。


簡単に言えば、

「真っ直ぐにすら書けないうちにあれこれしようと思っても出来ないでしょ。」

というのが私の考え方です。


私はこれまで、筆圧や筆速を自由自在にコントロール出来るようになる為の道程の第一段階として、「同筆速同速度」という概念を繰り返し提案し続けてきましたが、「字の体幹」に於ける「真っ直ぐ書く」という事についてもそれと同様に、道程の第一段階として捉えて下さい。(私の理屈に於いて「字の体幹」と「同筆圧同速度」とは車の両輪のようなものと思ってもらえれば良いでしょう。)


ところがいきなり話が矛盾するようですが、「先ずは真っ直ぐ書けるように」とは言いつつも、真っ直ぐ書けるようになる事は真の目的などではありません。

「ここまで話してきて何を今更?」

と思うかもしれませんが、ここを誤解しないで下さい。

真の目的とはあくまで

「字の体幹を見極める感覚を体得する事」

であり、「真っ直ぐ書けるようになる」というのは、その感覚を磨く為の手段の一つに過ぎないのですから。


真っ直ぐ書く為には、前回までの話のように様々な視点や高密度の意識を持ちながら書かなければなりませんが、そのようにして真っ直ぐ書こうとするその行為自体が、あなたの「字を書く」という行為に於ける視点や意識を磨き、それが結果として字の体幹を見極める感覚を磨く事にもつながるのです。

それは丁度、「同筆圧同速度」で書こうとする事によって、筆をコントロールする為に必要な様々な感覚が磨かれるのと同じ事です。


確かにちょっとやそっとで簡単に磨けるようなものではありませんが、磨き続けなければいつまで経っても何も変わりません。

気長に、そして諦めずに磨き続けて欲しいと思います。


ところでここまで話してきて、

「そもそも『字の体幹』っていうのがどんなものかよく分からないんだけど。」

と思った人もいるでしょう。


しかしどんなものかを説明しようにも、それを見極める感覚が無い人に向けてのここまでの話ですから、本当のところ感覚が無い人には説明のしようが無いのですが(苦笑)、「何となく」程度でも分かって頂く為に、次回は少し実例を挙げながら見ていきたいと思います。


但し、準備が面倒な事になりそうで既に今から気が重いので(苦笑)アップまで時間がかかってしまうかもしれません。

気長にお待ち下さい。

それではまた。

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2009年11月14日

真っ直ぐ。その4

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「真っ直ぐ」というテーマで話してきた内容も今回でもう4回目。

正直なところ、既に一刻も早くこの話題を終わらせたい気分になってしまっているのですが(苦笑)、まだそういうわけにはいきそうにもありません。

早速頑張っていきましょう。


前回までは目安の中心線がある場合として話を進めてきましたが、実際に年賀状の宛名書きをするような場合、いちいち鉛筆で薄く目安の垂直線を引いておく事など面倒ですから、必然的に目安の線が何も無い状態で書く事になるかと思います。

そのような状態で書く場合、どうしたら良いのでしょうか?


答えは単純で

「自分が書いた1文字目を目安にする。」

というものです。


既に話したように、真っ直ぐ書けたかどうかというのは、1文字目に対する2文字目以降の位置関係の問題ですから、先ずはとにかく1文字目を書いて、その位置を基準として2文字目以降を書けば良いのです。

言うまでもなくこの理屈には、

「少なくとも1文字目自体は真っ直ぐ書けている。」

という前提があるわけですが、それについては前回までの話でクリア出来ているとして話を先に進めます。


「自分が書いた1文字目を目安にする。」

と言うのは簡単ですが、これを実際にやろうとすると、皆さんなかなか出来ません。

尤も目安の中心線があったとしてもずれたり曲がったりするのですから無理もない話ではあるのですが、それにしても、出来ません(苦笑)

目安の線が無いのですから、線がある時以上に密度の高い意識を持ちながら書いて下さい。


今回も「東京都」を例にして考えてみましょう。


とりあえず1文字目の「東」は無事に書けたとします。

次に「京」を書くわけですが、その1画目、この位置が重要です。

前回までの話のとおり、「東」に対してこの1画目がずれてしまうと、必然的に「京」全体もずれてしまいます。

目安の中心線がある場合には、その中心線の上に書けば良かったのでしたね。

ですが、今は線がありません。

何を目安にしますか?


「京」の話をした時にも触れておいたのでもうお分かりだと思いますが、1文字目「東」の6画目の縦画を目安にするのです。

つまり、6画目の縦画を目安にして、それを垂直に下ろした「架空の中心線」を想定するのです。

そして目には見えないその「架空の中心線」の上に、「京」の1画目を書くのです。
「東京」真っ直ぐ


繰り返しになりますが「東」6画目の縦画、つまりは「架空の中心線」に対して「京」の1画目が下図のように右や左にずれてしまうと、必然的に「京」全体もそれにつられて右や左にずれてしまいますから、ここは極めて重要なポイントです。
「東京」ズレ

「東京都」3文字が真っ直ぐ書けるかどうかは、ここにこそかかっていると言っても良いでしょう。


「なぁ〜んだ。当たり前過ぎて何だか拍子抜け。」

と思うのでしょうが(笑)、その「当たり前」が出来ていない人の何と多い事か。


一見当たり前に思えるような事をどれだけ本当に「当たり前」の事として確実に積み重ねているのか?

私がこのブログで度々話してきたこの説教じみた台詞を、やはりここでも繰り返さなければなりません。

「当たり前」の事だからこそ、こうして改めて言われるまでも無く当たり前にやって欲しいのです。


「架空の中心線」に合わせて「京」の1画目が書けたら、「京」について説明した時の要領で「京」を書き進めます。

「京」6画目の縦画を書く前に、「京」1画目や、更に上の「東」の縦画の位置を再度確認しておく必要があるのもこれまた言うまでも無い事ですが、これは換言すれば、「東」6画目の縦画から下ろしてきた「架空の中心線」を確認するという事ですね。


そうして書き進めていくと、「東」の6画目→「京」の1画目→「京」の6画目といった具合に、それぞれが「架空の中心線」の上に真っ直ぐに並んでいるはずです。

ここまできたら次は「都」ですから、「架空の中心線」を更に下に伸ばしたつもりで、「都」の偏と旁のバランスに注意しながら「都」を書けば・・・


ホラッ!

「東京都」3文字が建に真っ直ぐ並びました。
「東京都」真っ直ぐ


はぁ、疲れた・・・(苦笑)


今回お話した「架空の中心線」という考え方を頭に入れておけば、3文字だろうが10文字だろうが同じ事の繰り返しですから、どこまででも真っ直ぐに書けるはずですし、例えば「神奈川」のように1文字目に目安となる縦画が無い場合でも、偏と旁のバランスに注意して「神」を書いておいて、その中心を「架空の中心線」として下に伸ばすつもりで書いていけば、やはり同じ理屈で書けるわけです。


「それにしても、いちいちこんな面倒臭い事を意識しながら書かなければいけないの?」

と思われる方もいるでしょう。

その辺りについての話は次回に。

次回こそ、このテーマは終わりにしたいですね(苦笑)

それではまた。

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2009年11月12日

真っ直ぐ。その3

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「東京都」の3文字を例に挙げてここまで話を進めてきましたが、漸く「都」まで辿り着きました(汗)


実は「東京都」3文字の中でこの「都」が一番の難題です。

というのも、「東」や「京」は中心の目安になる縦画が含まれている字でしたが、「都」にはそれがありません。

「都」のように偏と旁で構成されている字の場合、中心の目安と出来る画が無いからこそ、これまでの話以上に「書く前」の意識を明確にしておかなければならないのです。


「都」の場合について大雑把に言えば、中心線(下図の黒い線)よりも左に偏(水色)を、右に旁(ピンク)を書くのが一番大きなポイントでしょう。
偏と旁真ん中

確かにさんずいやにんべんのように画数の少ない偏の場合にはこの限りではありませんが、その場合でも偏と旁のバランスで中心を作らなければならないという事には変わりはありません。

これは頭で考える以上に難しい事です。

「文字の体幹」とでも言うべきものを自らの感覚で感じ取りながら書かなければならないからです。

その為には数多くの字を書きながら、少しずつその感覚を自分の中に蓄積していくより他に無いのですが、只闇雲に書いていても意味がありません。

一点一画に対して常に高い意識を持ちながら書いていく事によってこそ、初めて蓄積される感覚であり、その地道な積み重ね以外にはこの感覚を体得する術は無いと言って良いでしょう。

その為の第一歩として重要なのが、やはり何と言っても、一画目の入筆位置なのです。


偏と旁で構成されている字の場合、この一画目の入筆位置が左にずれてしまうと偏が左に寄り過ぎて、それにつられて旁も左に寄ってしまい、結果として字全体が左にずれてしまう事になりますし(左下図)、逆に入筆位置が右にずれてしまうと今度は偏が中心線をはみ出して、本来なら旁がくるべき位置を占領してしまい、旁が右に押し出されて、結果として字全体が右にずれてしまう事になります。(右下図)
偏と旁左寄り  偏と旁右寄り

ですからこの辺の事までよく考慮してから1画目の位置を決めなければなりません。

「都」の1画目は横画ですから、偏である「者」の部分の書き上がった状態をよくよく想定してから入筆位置を決めましょう。


皆さんの書いたものを見ていると、入筆位置が中心線から離れ過ぎている場合が多いようですから、それを一つの傾向として覚えておくと良いかもしれません。


それから偏と旁で構成されている字でありがちな失敗が、1画目の位置は大丈夫だったにも関わらず、偏の一部分が右に張り出してしまい、そのせいで旁が右に押し出されてしまう、というパターンです。
偏と旁右はみ出し

これは今回の「都」の偏である「者」や、きへんのように、偏の中に横画や斜画が含まれているものの場合に起こりやすいという事を覚えておきましょう。

「都」で言えば3画目の横画が長過ぎると、このような状態になります。

つまり、3画目までの「土」の部分を「土」という字の形そのままのようにに3画目を書いてしまうと、3画目の右側の長さが長過ぎてしまい、右側にはみ出した3画目によって旁が押し出されてしまうのです。
偏と旁右はみ出しその2


ですから「都」の偏は中心線をはみ出さないように書いておく事もポイントの一つです。
偏と旁真ん中その2


ここまでの話の上で無事に偏の「者」が書けたとして、次に旁を書くわけですが、この時に偏との間隔を空け過ぎてしまうと、仮に偏の位置や形が丁度良く収まったとしても、字全体が書き上がった時に右にずれたように見えてしまいますから、これまた注意が必要です。
偏と旁中空き


難題の「都」について以上のような幾つかのポイントについて話してみました。

更に詳細なポイントについて説明する事もまだまだ可能ではありますが、最低限上記のポイントに気を付けながら書けば、「都」は中心から大きくずれる事無く書く事が出来ると思います。


さて、ここまで「東京都」と書いてきましたが、3文字縦に真っ直ぐ並びましたか?

今は目安の中心線が引いてある場合として話をしていますが、実際には目安の中心線など無い状態で書かなければならない場面も多いでしょう。

この場合にもここまで話してきた以外の特別な理屈など必要無いのですが、「必要無い」と言うだけではあんまりでしょうから、次回は目安の中心線が無い状態で書く場合についての話をしてみたいと思います。

それではまた。

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2009年11月08日

真っ直ぐ。その2

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前回はさんざん長話を続けたにも関わらず、「東京都」のうち「東」1文字までしか話が進みませんでしたね(汗)

早速続きといきましょう。

確認ですが、今は目安となる中心線が引いてある状態で書く場合として話を進めています。


さて、前回の最後に

「本当の意味で真っ直ぐに書けるかどうかは2文字目からが問題」

と言いました。

これは考えてみれば当たり前の話で、「曲がる」とか「ずれる」とかいうのは、「上の字に対して」起こる話ですから、本当の問題は2文字目であるここからなのです。


実は前回の「東」一文字についてのみ考えても、2画目以降が「曲がる」とか「ずれる」とかいうのは、1画目の横画に対して起こるわけですから、1文字目に対する2文字目以降の場合と話は全く同じなのです。

ですから一文字書くのに無頓着な人は2文字目以降の位置について意識しながら書けるはずもありません。

だからこそ、前回あれ程にまで言葉を費やしてくどいまでの理屈を付けて説明したのです。

今回は前回の話を前提として進めますので、前回の話の途中で屁理屈に飽きてしまった人(笑)は、もう1度戻ってよく読み直しておいて下さい。


さて、「東京都」の「京」ですが、この字は幸いな事に1画目が真ん中に書くべき点ですから、話は簡単ですね。

「東」の縦画と同様に点を真ん中に書けば、つまりは中心線の上に書けばそれでOKです。


ところがですねぇ、これもまた驚くべき確率で皆さん出来ないんです。

「この点を中心線の上に書いて下さい。」

と言われればさすがに出来ますよ。

しかしそこまで具体的にはっきりと言われないと、皆さん何気に左や右にずれた位置に書いてしまうのです。

それでは真っ直ぐになど書けるはずもありません。


中心線の上に書くという事は、つまりは「東」の縦画の真下に書くという事です。

これがずれてしまうと、その時点で「東」と「京」は縦に真っ直ぐ並んでくれない事が決定してしまいますから、一点一画、常に強い意識を持ちながら書きましょう。


1画目の点が書けたら2画目の横画ですが、これは「東」の横画と全く同じ理屈ですからここでは繰り返しません。

左や右にずれたりしないように注意しながら書いて下さい。

念の為に一言だけ繰り返しますが、ここでも入筆位置に注意ですよ。


3画目以降の「口」の部分も「東」に於ける「日」の部分と同じ理屈です。

これも単なる図形として見るのであれば、誰も下図のAを見てBやCのようには描かないと思うのですが、文字の一部分になった途端、BやCのような事をやってしまいがちです。

「京」真ん中

「京」左ズレ   「京」右ズレ

B                  C


「口」の最初の縦画の入筆位置を決める前に、書き上がった時の「口」の位置、つまりは「口」の横幅がどのくらいになるのかまで想定しておく事を忘れてはいけません。


「口」まで書けたら次はまた縦画です。

言うまでもなく、この縦画は「京」の1画目の点の真下に書かなければならず、それは「東」の縦画から垂直に下りてきた位置でもあります。

必然的に中心線の上に書く事になりますよね。


ここまで書ければ「東京」という2文字が縦にきちんと真っ直ぐ並んでいるはずです。

後は残りの2画を書いて、ほら、無事に「東京」が真っ直ぐ書けました。


次は最大の難関である「都」なのですが、続きは次回に。

それではまた。

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いらっしゃいませ。

あれこれ思いつくままに書いているので、書道独特の専門用語や人名などの固有名詞に関しては、その都度解説を付ける事はしていません。

初心者の方や学び始める以前の方には難解な部分も多かったかもしれませんが、お許し下さい。


「一言書いてみたいんだけど、みんなに読まれてしまうコメントに書くのは何だか気が引ける・・・」

という方や、

「何だか下手な事を書いたら説教されそう・・・」

という方、また、通信添削について御質問のある方は、下記のアドレスまで御意見御質問をお送り下さい。

誹謗中傷を目的としたような常識に反するもの以外、お返事させていただきます。

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2009年11月05日

真っ直ぐ

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今回から数回に亘って、少しややこしい話をしたいと思います。


例えば自分の氏名や住所等を書く際、

「真っ直ぐ書きたいのに曲がったりずれたりしてしまう。」

という人がいます。

「中心の目安にする為の線を鉛筆で薄〜く垂直に引いておいても全然ダメ。」

という人も少なくありません。


そこで今回は、年賀状を書く時期も近付いてもきましたし、真っ直ぐ書く事の是非については触れずに、素直に

「何故曲がってしまうのか?どうしたらずれずに真っ直ぐ書けるのか?」

について考えてみたいと思います。

あ、因みに縦書きの場合の話ですからね。

この話、冒頭に「ややこしい」と書きましたが、実は本人を目の前にしながら説明すれば何とも単純なものなのですが、それを文章で説明しようとすると途端にややこしくなってしまいそうなのです(苦笑)

ですから正直言うと今までずっと避けてきた話題なのですが、何とか頑張ってみますね。


先ずは中心線が引いてあるとして、そこに書く場合の話からいきましょうか。

真っ直ぐ書きたいのに曲がったりずれたりしてしまうというのには、一つ大きな原因があります。

それは

「今から自分が書こうとしている字の形や大きさや位置について、『書く前に』ちゃんとそれらを想定しないまま書いてしまっている。」

というものです。

まぁ、これもいつもの「書く前の意識」が足りないという話の一つなのですが、もう少し具体的に考えてみます。


私は東京都に住んでいますから、「東京都」を例にしてみましょう。

先ず「東」ですが、早速これからずれてしまう人の場合、最初に考えられる原因は一つしかありません。

1画目の横画を真ん中に書いていないからです。


「え〜っ!?そのくらいは出来るんじゃない?」

と思ってはいけません(笑)

出来ていない人、とっても多いんですよぉ。


1画目の横画が真ん中に書かれずに左右どちらかにずれてしまったとすると、1画目が書かれたその時点で既に「東」は横画がずれたのと同じ方向にずれる事が決定してしまいます。

何故なら、2画目以降の部分は1画目の横画の下に書くのですから、1画目の横画が左や右にずれた場合、それにつられて2画目以降も同じ方向にずれてしまうからです。


ではそもそも、目安の中心線があるのに何故1画目の横画が左や右にずれたりするのでしょう。

これは、先に話した

「今から自分が書こうとしている字の形や大きさや位置について、『書く前に』ちゃんとそれらを想定しないまま書いてしまっている。」

というのと同様に、書き上がった時の1画目の横画の位置を、「書く前」に、ちゃんと想定していないからで、つまりはそれが書き上がった時の「東」の全体像の位置を想定していない、という意味にも繋がるのです。


例えばこれが手本を見ながら書いている場合だとすると分かりやすいのですが、1画目の横画の位置がずれるという事は、横画が始まる位置、つまりは入筆位置がずれているという事に他なりませんから、入筆位置がずれた時点で、既に字全体がずれる事は決定してしまいます。

何故なら手本を見ながら書いている場合、横画の長さは手本によって決まっているのですから、例えば入筆位置が手本よりも左にずれた場合、その位置から手本と同じ長さの横画を引けば、必然的にその横画は手本よりも左にずれた位置、つまりは中心線から見て左にずれた位置に書かれる事になり、先程の理屈の通り、左にずれた横画につられて「東」全体も左にずれてしまう結果になるからです。


尤もこの理屈には例外があって、「手本と同じ長さ」に引く事からして出来ない人の場合、入筆位置がずれたにも関わらず運良く1画目の横画の位置が真ん中に来る事があります。

但し、その場合には必然的に1画目の横画の長さは手本と異なっているわけですから、結果として、「東」全体の大きさも手本とは異なってしまう場合が殆んどでしょう。(「最初の一歩」の回参照)

このような偶然的な例外まで考慮に入れていては話が更にややこしくなってしまいますので、今回は省いて考えましょう。


さて、1画目の横画の位置がずれてしまう理由は分かりましたので、それに注意しながら無事に横画が真ん中に書けたとします。

次の2画目以降の「日」の部分は、先に書いた理屈通りなら、1画目の横画を真ん中に書く事さえ出来れば、それにつられて「日」も真ん中にきてくれそうなものだと思いたいのですが、実際にはそうもいかないようです(苦笑)

これが図形であれば、下図のAを見てBやCのように描いてしまう人などまずいないと思いますが、字の一部分になった途端、BやCのように書いてしまう人がいるからです。

これではいけません。(「形の話。その2」の回参照)

「東」真ん中
「東」左ズレ「東」右ズレ

                        


ここでもやはり、書き上がった時の「日」の位置を想定しておいてから書かないから、BやCのような事が起こってしまうのです。

この場合も肝心なのは(2画目縦画の)入筆位置です。

これがずれてしまうと「日」全体がずれてしまいますからね。

書き上がった時の「日」の位置をしっかり想定してから入筆位置を決めなければなりません。

書き上がった時の「位置」を想定しておく、というのをもっと具体的に言えば、書き上がった時の「横幅」を想定しておく、という事になりますが、これに対して無頓着なままに入筆してしまう人が非常に多いのです。(1画目の横画でも話は全く同様です。)


さぁ、「日」の部分がずれずに書けたとして、問題はまだ残っています。


「日」の部分の次、6画目の縦画です。

せっかくここまでちゃんと書けたのに、この縦画を真ん中に書かない人、これまた少なくありません。

本来ならこの縦画を真ん中に書くのは簡単なはずです。

今は目安の中心線があるのですから、早い話が中心線の上に書けば良いだけです。

ところがこれすら出来ていない人、ホントに多いんですよぉ(苦笑)

真っ直ぐに書こうとしているにも関わらず、この縦画を真ん中に書こうとしないというのは、正直な話、私には全く理解出来ないのですが(苦笑)、実際にはたくさんいるのです。


ここまで話を進めてきてお気付きかと思いますが、1画目の横画が真ん中に書かれていないと、それ以降を書き進めた結果として、この縦画を真ん中に書く事が出来ませんよね。

この縦画だけ無理矢理真ん中に書いてもダメなんですから。


逆に言えば、とにかく最初の横画が真ん中に書かれてさえいれば、その次の「日」の部分、更に次の6画目の縦画、と順を追って話を進められるわけで、その結果として6画目の縦画を真ん中に書くところまでくれば、自然と「東」は真ん中に書かれているはずなのです。

ところが実際には、この縦画も無頓着に(としか私には思えないのですが)左や右にずれた位置に書いてしまう人がいるのです。

それではダメなんです。

ホントにしつこいようですが、「書く前」に、色々な事によくよく注意してから書きましょうね。


後は左払い、右払いを書けば無事出来上がりです。


というわけで、ここまで何とも大騒ぎしながらやっと一文字真ん中に書けました(汗)

ここまででは一文字を「真ん中」に書いただけなので、本当の意味で「真っ直ぐ」書けるかどうかは2文字目からが問題なのですが、既に話がとんでもなく長くなってきました(汗)

先が思いやられますが続きは次回に。

書くのに時間がかかる内容なので、次回分をアップするまでにお待ち頂く事になるかもしれませんが、何とか頑張ってなるべく早くしますので。

こうなると「のんびり」どころではありませんね(苦笑)

それではまた。

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2009年10月15日

たかが照明

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突然ですが、皆さん普段書を書く時、その部屋の照明の光の色はどんな色ですか?


「私は昼間にしか書かないから、窓からの自然光なんだけど。」

という人は問題ありませんので、申し訳ありませんが今回のお話に少々お付き合い下さい。


照明の光の色にはメーカーによって呼び名は様々かもしれませんが、暖色系、昼光系、青白系の3種類があるようです。

尤も白熱灯の場合には必然的に暖色系になるでしょうが。


結論から言いますと、いわゆる暖色系の照明の下で書いている人は注意が必要です。


話を単純にする為に、ここでは料紙のように色の付いた紙ではなく、白い紙に書く事を想定します。

何故注意が必要かと言うと、暖色系の場合、照明の色のせいで紙自体に色が付いたような状態で書く事になるからです。

このような状態で書く場合、墨の部分と余白の部分のバランスが、自然光や昼光系や青白系の下で書いたものと微妙に異なってくる場合があるのです。


どう異なるのかと言うと、暖色系の場合、墨の部分が弱い状態になりがちなのです。

と言うよりも、暖色系の下で書いたものをそうではない光の下で見てみると、余白の白い部分が思っていたよりも強くなってしまう事によって、相対的に墨の部分が弱くなる、と言う方が妥当かもしれません。

つまり、白がくっきりはっきりと白として目に映るので、書いている時よりも白が強く見えてしまうのです。


「暖色系には注意が必要」

と言いましたが、実は全く逆の問題も起こり得ます。


新聞社系の巨大公募展などの会場では、会場が暖色系の照明という事はまず無いでしょうが、それ以外の場合、会場や展示する場所によっては暖色系の照明が使われている、という事も珍しくありません。

この場合、普段白い光の下で書いたものを暖色系の光の下で見ると、さっきまでの話とは正反対の事が起こるわけです。


このブログを毎回お読みの方はお気付きの通り、今回の話は少し前に書いた距離の話とも関連していますが、書いている時とそれを見た時のギャップが生じる一因には、こんな事も含まれているのです。


尤も照明の光の色をどうするかなんて事は個々人の好みですから、良い悪いの問題ではありませんが、そういう事が起こるという事実は一応念頭に置いておく方が良いでしょうね。


因みに私は白がパキッとくっきりはっきりしていないと嫌なので、青白系の光の照明にしています。

以前の目の病気のトラウマ(「覚悟」の回参照)で、白がはっきりくっきりしていないと気分的に辛いからです。


とまぁ、今回はサラッと照明の話でした。

実際には、この辺の違いに気が付いている人でしたら、わざわざ言われるまでも無く、自分なりに意識して書いているでしょうから「釈迦に説法」だったかもしれませんが(笑)


今回はここまで。

それではまた。

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2009年10月11日

一を聞いて

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今回は(前回もそうでしたが)私が普段教室で教えていてよくある

「う〜ん…」

と思ってしまう事について話してみたいと思います。


稽古中の添削であなたは、例えば「村」という字の「木へん」の形について指摘を受けたとします。

そこであなたは

「成程」

と思い、指摘された事に気を付けながら練習しました。

結果、その指摘箇所については先生に直されなくなりました。


程無くして、今度は「杉」という字の「木へん」の形について指摘を受けました。

ところがそれは「村」の時と全く同様の指摘だったのです。


皆さんこういう事、ありませんか?


話の展開から御察しの通り、これ、全然ダメなんです(苦笑)


これは指摘を受けた時の意識の持ち方に問題があります。

最初に「村」の木へんの形を指摘された時に、

「木へんの形」について指摘された。

と意識するのか、只漠然と

「村という字」について指摘された。

と思って済ませてしまうのか。


この二つは似ているようで実は全く違います。


「木へんの形」を指摘されたとして意識出来ていれば、次に「杉」のように木へんの付いた別の字が出てきたとしても、先程の「村」と同じように「木へんの形」に気を付けながら書く事が出来るでしょう。

ところがこれを漠然と「村」への指摘として捉えてしまうと、次に「杉」が出てきた時、先に指摘を受けたはずの木へんの形には気を付ける事が出来ず、単なる「杉」という別の字としてしか意識出来ないのです。

これは木へんの付く全ての字について一切の関連性を持たせずに完全に個別なものとして学ぼうとするようなものですから、そんな事をしていては一生が200年あっても足りません(笑)

木へんの付く字が何種類あるのかなんて、諸橋の『大漢和辞典』を調べてみる気にすらなりませんが(苦笑)、これでは学ぶに効率が余りに悪過ぎます。


一度木へんについて指摘を受けたのであれば、全ての木へんの付く字の「木へんの形」については、いちいち言われなくとも気を付けて書くようでなくてはダメなんですよ。


「そんなややこしい話じゃなくて、只単に木へんについての指摘を忘れてただけだろう。」

と思うかもしれませんが、「忘れてた」なんて、そんなの尚更ダメですよ(笑)

というよりも問題外です。


「だって…忘れちゃうんだもん…」

と言いたいのかもしれませんが、それならそれこそいちいち言われなくてもメモを取るなり何なり、自分なりの「忘れない為の工夫」くらい自分で何とかして下さい。

正直な話、大人相手にそこまで面倒見きれません(苦笑)


今回は「形」の話として取り上げていますが、話は筆使いでも墨の使い方でも、何でも同じです。


「一度受けた指摘は二度と忘れない。少なくとも忘れないように最大限努力する。」

というのは当然の話ですが、

「一度受けた指摘に関連するような指摘は受けない。少なくとも受けないように最大限努力する。」

というのも当然の話であって然るべきだと思うのです。


教える側からすると、それまでにその人にどんな指摘をしてきたのか、というのは大抵全部覚えていますから、今回の木へんの例で言えば、「杉」の木へんで「村」の木へんと全く同じような事をしていると、

「う〜ん…さっきの木へんの話、分かってないなぁ…」

と思うわけです。


「忘れてなんかいないけど、上手く出来ないんだもん。」

という意見もありそうですが、こちらもプロの端くれです(笑)

分かってないのか、分かってはいるけど出来ないのか、その区別くらい、書いたものを見ればすぐに分かりますよ。


いつもの愚痴になりますが、

「いくら書いてもちっとも上手くならない。」

といったセリフを連発する人に限って、今回の話のような点については全くダメだったりするものです。


「一を聞いて百を知れ。」

とは言いませんが、せめて

「一を聞いたら他の一については言われずとも気付く。」

くらいのつもりではいて欲しいと思うのです。


私としては至極当然の話をしているつもりなのですが、皆さんにとってはハードルの高い話なのでしょうか?

日頃の自分を思い返してみて下さいね。


今回はここまで。

それではまた。

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2009年10月10日

たかが距離、されど距離。その2

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話の途中で間が空いてしまい申し訳ありません(汗)

前回は「距離」という観点から、離れた距離から見る(見られる)事が前提となるような作品の場合

「その距離から見た(見られた)時に丁度良い出来になるように書く。」

という事について考えてみましたが、今回は話をもう少し実際的にしましょう。


前回、展覧会の例の中で墨の量に話が触れましたから、今回も墨の量を例にとります。

墨の付け方については以前「墨を付ける前に」「墨を付ける前に。その2」の回で今回の内容の前提となるような話をしていますので、未読でしたらそちらを読んでおく事をオススメします。


さて、今あなたは展覧会に出品する作品を書いているとします。

サイズは半切でも二八でも、とにかく「離れた距離」から見る事が前提となるようなサイズなら何でも良いのですが、とりあえず手頃な半切にしておきましょうか。


あなたは自分で書いている時には墨を充分に付けているつもりでしたが、教室で先生に見せたら

「全然墨が足らないよ。」

と言われてしまいました。

確かに教室の壁面にかけて、少し離れた所から見てみると、書いている時に自分で思っていたよりもずっと墨が少なく感じます。


「あれ〜?おかしいな?」

と思ったあなたは、

「今度こそ」

というつもりで墨をたくさん付けて書きました。


次の稽古で先生に見せたら

「まだまだ足らないよ。」

と言われてしまいました。

「え〜?」

と思いながら離れた所から見てみると、確かにやっぱりまだまだ少なく感じます。

「おかしいなぁ?書いている時には真っ黒にするつもりで書いていたし、実際そう感じながら書いていたんだけどなぁ…」


皆さんの中にもこのような経験をした事がある人がいるはずです。


このような事が起こる原因には二つあります。

先ずは「限界の越え方」が下手な場合です。

これについては「大きさ」という観点から以前「習い方。その4」の回で説明しているので、ここでは繰り返しません。


今回の話の中心はもう一つの原因の方なのですが、これは「書いている時の視点から紙まで距離」と、それを壁面にかけたような「離れた位置での視点から紙まで距離」とで、あなたの感覚に大きなギャップがある事に起因しています。

もう少し具体的に言うと、書いている時の視点で感じている墨の量と、離れた視点で感じる墨の量がずれているのです。


この状態では、書いている時に「たくさん付けた」と感じる程度の墨の量では、実際に離れた距離から見ると「まだまだ墨が少ない」という結果になってしまいます。

「たくさん付けた」と感じながら書いていてもそうなのですから、書いている時に「丁度良い」と感じているようでは、結果は離れて見るまでもありません。

これは裏を返せば、現時点でのあなたの感覚は、離れた距離から見ると「墨が少ない」ものになっているにも関わらず、それを書いている時には「たくさん付けた」「丁度良い」と判断してしまう、という事に他なりません。


話を戻しますが、半切等の大きなものの場合、離れた距離から見る(見られる)事が前提ですから、仮に書いている時にどれ程「たくさん付けた」「丁度良い」と感じていたとしても、離れた距離から見た時に「少ない」「足らない」「さみしい」のではダメ、なのです。

つまり、このギャップを少しずつでも埋めていかなければならないのです。


その為に出来る事。

それはとにもかくにも、書いている時に、今の自分が「たくさん付けた」と感じるよりも「もっともっとたくさん」付けてみる、という当たり前の試行錯誤を繰り返す事以外にありません。

簡単に言えば、書いている時に「明らかに付け過ぎ」と感じるような付け方をしてみる必要があるのです。


先述の「限界の超え方」という事で言えば、

「どの程度まで墨を付けたら、離れた距離から見ても本当に付け過ぎに見えてしまうのか?」

つまり、

「手元で見たら真っ黒けの付け過ぎ。離れて見てもやっぱり真っ黒けの付け過ぎ。」

となるような墨の量を少しでも早く体得してしまう事が肝心です。


この試行錯誤を繰り返していくと次第に、書いている時から、離れた距離から見た時の墨の量の見当が付くようになっていきます。

つまり、書いている時に「丁度良い」と感じる墨の量と、離れた距離から見た時に「丁度良い」と感じる墨の量とのギャップが無くなっていって、離れた距離から見たものが「書いている時に感じていたままの出来になっている」というように変化していくのです。


但し、これは自分で余程しっかりと意識しながら試行錯誤しないと、いつまで経っても変化していきませんから、心してかからなければなりません。


今回のこの話、日頃書を書いている自宅に、教室や更には展示会場と同じような広い空間があり、離れた距離から自分の作品をチェック出来る、という環境にある人の場合、日頃の練習から自然と近距離と遠距離との感覚のギャップを埋める為の試行錯誤を行っているのだ思われますが、現実には日本の一般的な住宅事情を考えると、多くの人はそうはいかないと思われます。

ですからこそ、しっかりとした意識を持った上での試行錯誤が必要なのです。


というわけで、ここまで前回から2回に亘って、「たかが距離、されど距離」として考えてきました。

正直に言うと、ある意味で「展覧会対策」とでも言えるような今回の話というのは余り好きではないのですが、日頃教えていて、このギャップがなかなか埋められないという人が極めて多いので、ここは私情は敢えて押さえて我慢して(笑)、ここで1度ちゃんと書いておく事にしました。

もう少し私好みに話を引き寄せれば、これは「机上鑑賞」と「壁面鑑賞」との違いの話に通じ、「机上鑑賞」から「壁面鑑賞」への変化が中国書道の変遷に齎した影響についての話にもなっていくのですが、この辺りまで行ってしまうとこのブログで扱う範囲を超えてしまうような気がするので、結局ここでは書けそうにありません(苦笑)

まぁ、大きなものを書いている人達にとって、今回の話が少しでも参考になるのであれば、私はそれで満足ですけどね(笑)


今回はここまで。

次回は別の話にしましょう。

それではまた。

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2009年10月04日

たかが距離、されど距離

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前回はおはぎやら大福やらの話で終わってしまったので(笑)、今回は話を書に戻しましょう。

そこで今回の内容ですが、毎度の事ながら、これまでにこのブログの何処かで似たような話をした事があったような無いような、そんな感じなので、重複部分はお許し下さい。


皆さんは普段、書の練習をいうと、半紙大や半懐紙大での練習が中心の人が多いのではないかと思います。

勿論、紙の大きさは色々とありますから、半紙大や半懐紙大以外にも半切やそれ以上の大きさのものも書いている、という人もいるでしょう。

今回の主役は、そういった大きな紙にも書いている人達です。

話を単純にする為に、以後は小さいものを半紙大とし、大きいものを半切以上として考えてみます。


突然ですがここで1つ問題です。


小さいものと大きいものと、この両者に於ける決定的な違いとは一体何でしょう?


「大きさ」

ってそれは当たり前過ぎますから除きます。


答えはですね。

「作品とそれを見る人との距離。」

の違いです。


簡単に言うと、大きいものの場合、作品を見る人との距離が小さいもののそれよりも遥かに離れているのです。


「なぁ〜んだ。それだってやっぱり当たり前でしょ。」

と思うなかれ。

この当たり前の事実には、実に重要な問題が含まれています。


この当たり前の事実を別の角度から換言すると、小さいものの場合、

「書く時の『視点から作品までの距離』と、それを見る(見られる)時の『視点から作品までの距離』が殆んど変わらない。」

のに対し、大きいものの場合、

「書く時の『視点から作品までの距離』と、それを見る(見られる)時の『視点から作品までの距離』が大きく異なる。」

という事になります。


話を具体的にイメージしやすくする為に、展覧会の場合を例にとります。(ここでは展覧会の功罪については一切触れずに話を進めます。)

展覧会の会場で作品を見る時を思い出して下さい。

小さい作品を見る時は、作品のすぐ前まで行って見るでしょうが、大きい作品を見る時は、小さい作品を見る時よりもずっとずっと後ろに下がった位置から見るはずです。

そうでなければ全体が見えませんからね。


この違いを書いた本人の立場で考えた場合に何が起きるのかと言うとですね。


大きいものの場合、

「書いていた時に自分が感じていたものと、離れた距離からそれを見た時に感じるものとが大きく異なる。」

という事が起こるのです。


皆さんの中にも、展覧会に出品する作品を書いた時、

「書いている時には、墨の量もたっぷりと、黒々とした迫力のあるものが書けたつもりでいたのに、いざ会場で見てみたら、何だか想像していたよりもずっとずっと寂しくて貧弱な出来だった。」

というような事を経験した事がある人が少なくないはずです。


「あれ〜?何だかがっかり・・・」

と思った人もいるでしょう。


ここで更に考えてみましょう。

大きいものの場合、それを見る(見られる)視点から作品までの距離が離れているというのは、最初から分かっている事です。

つまり、書いている時の視点よりも遠く離れた視点から見る(見られる)事が前提となっているわけです。

であるならば、作品としてそれを書くからには、遠く離れた視点から見る(見られる)事を前提として書かなければならない、という事になります。

簡単に言えば、

「見た(見られた)時に丁度良い出来になるように書く。」

という事です。


これはある意味では極めて作為的な意図に他なりませんから、

「そんなのって、書本来の姿とは違うんじゃないの?」

という意見もあるでしょうし、私もそれには同意しますが、その一方で、離れた距離の視点から見る(見られる)事が前提であるならば、それに合わせて書こうとするのは自然な意図であり、仮にそれを完全に無視するのであれば、わざわざ大きなものを書く意味が無い、とも言えるのではないでしょうか。


何故ならこの前提に対する完全な無視は、極論すれば見る(見られる)事を前提とせずに、「書く」という行為自体にのみ意味を認める、という事になりますから、そうなるとまるで、料理をしながらも食べる(食べられる)事を全く前提とせずに、只作るだけ作って誰の口にも入れないまま捨ててしまう、というような極めて不自然な話に行き着いてしまうからです。


だってですよ。

わざわざ料理を作っても自分で食べるわけでもなし、人にも食べさせない、というのであれば塩加減や味付けなんてどうでもいいでしょうし、そもそも料理を作る意味なんて無いでしょう。

それと同じ事で、書いたものが自分の目も含めて誰の目にも触れないというのであれば、紙の大きさなんて大きかろうと小さかろうとどうでもいいでしょうし、

「そもそも書く意味なんてあるの?」

という話にはなりませんか?


実際私達は展覧会への出品作品を書く場合、ここまでに話したような作品からの距離は勿論、会場の広さや天井の高さ、明るさ、自分の作品と周りの作品との距離等、そういった事まで前提とした上で、

「この作品が会場に展示されたらどう見えるのか?」

という事を想定しながら書くのです。

何故なら展覧会に展示するのが最初から分かっているのですから。

それならそれに見合ったものを書こうとする事こそが自然の道理とは言えないでしょうか。


展覧会を例として話を進めてきたついでに言えば、今日のように、展覧会と言えば大きな作品を壁面に展示する、という所謂「壁面鑑賞」が当たり前になっている事情に於いては、これは絶対に無視する事の出来ない観点です。

繰り返しますが、展覧会に展示するのが最初から分かっているのですから。


さて皆さん、大きいものを書く時、それを離れた位置から見た時の事を想定して書いていますか?

「見た(見られた)時に丁度良い出来になるように」

書いていますか?


このように考えてみると、

「たかが距離、されど距離」

でしょ?


と、今回は距離について考えてみましたが、次回は

「見た(見られた)時に丁度良い出来になるように書く。」

という事について、もう少し実際的な話をしてみたいと思います。

なるべく早くアップしますからね。


それではまた。

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いらっしゃいませ。

あれこれ思いつくままに書いているので、書道独特の専門用語や人名などの固有名詞に関しては、その都度解説を付ける事はしていません。

初心者の方や学び始める以前の方には難解な部分も多かったかもしれませんが、お許し下さい。


「一言書いてみたいんだけど、みんなに読まれてしまうコメントに書くのは何だか気が引ける・・・」

という方や、

「何だか下手な事を書いたら説教されそう・・・」

という方、また、通信添削について御質問のある方は、下記のアドレスまで御意見御質問をお送り下さい。

誹謗中傷を目的としたような常識に反するもの以外、お返事させていただきます。

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定期的にアップ出来ているわけではありませんが(正直言ってサボりがちです)、よろしかったらまた覗きにいらして下さい。

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2009年02月25日

「質と量」の補足

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少し前に、「質と量」として、練習の質について話しました。

ところがその後、その記事を自分で読み返してみたところ、どうにも話が片手落ちのような気がしてきてしまい、気になって仕方がありません(苦笑)

そこで、今回は補足です。


質と量」の回では、

「只闇雲に次々と書くのではなく、一枚毎の意識の密度を高くする事を心掛けよう。」

という内容の話をしましたが、もう少し具体的な内容として、

「自分の書いたものと手本とを、穴が空く程見較べたかどうか?」

といった話もしました。

大抵の人の場合、手本の見方が圧倒的に甘い事からの話だったのですが、ここで一つ、大事な事があります。


手本を穴が空く程見たとして、今度はそれを

「実際に自分で書いてみなければ意味が無い。」

という事です。

つまり、見ただけで分かったような気になっていたのでは、やはりダメなのです。


純粋に鑑賞者の立場であるのなら、つまり私流の言い方をすれば「受け手側」にいるだけならば、それで何の問題もありません。

しかし今は話が違います。

自分で書く事を学んでいる側、つまりは「作り手側」に身を置いているのですから、見ているだけでは困るのです。


よくよく見て、今度はそれを実際に自分の手で書いてみて、書いたものをよくよく手本と比較検討して、更に書いてみて・・・

という過程を幾度となく繰り返さなければなりません。(「質と量」の話はつまりはその過程の中身についての考察でした。)

その過程を繰り返した上で、先生の添削指導を受け、自分の試行錯誤の仕方に問題が無かったのかどうかを点検するのです。


以前に何処かにも書きましたが、私は

「百見不如一筆」

という言葉(私の造語)を自戒の言葉として常に自分に言い聞かせています。

百見るよりも先ずは一書いてみよう。

という事です。


質と量」の話と矛盾するようですが、書を学ぶに於いて

「実際に自分の手で書く」

というのは今更言うまでもなく全てに先立つ大前提ですから、その部分が抜け落ちたまま、どれ程意識の密度を高くしようとしてみても、それではまるっきり本末転倒でしかありません。

意識の密度を高くする、という話も、要は「書く」為の話なのですから。


只書くだけでも駄目、只見ているだけでもダメ、という何とも掴みどころの無い結論になってしまいますが、要はバランスの問題ですので、くれぐれも誤解の無いようにお願いします。

というわけで、今回はここまで。

それではまた。

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2009年02月14日

質と量。その3

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前回は

そもそも「上手く」ってどんなものですか?

という私の質問に

「先生の手本と同じような字」

と思ったあなたへ、

「ちょっと違う」

というところまででしたね。


今あなたが挙げた

「先生の手本と同じような」

という例は、実は既に具体的な意識です。


これは、私に「上手く」という曖昧なものについて質問されたあなたが、それに説明を付けようとして考えてみた結果として導き出した答に過ぎません。

説明を付ける為には具体的である必要がありますから、導き出された答(「先生の手本と同じような」という意識)は必然的に多少なりとも具体的なものになるわけです。

ですからその時点で既に

「上手く書こう」

と只漠然と思っていた時点までの「上手く」とは、その中身が違うのです。(私の言いたい事、分かりますか?)


単なる屁理屈に聞こえるでしょうが(笑)、このような意識の具体化を、どこまで詳細に「実際に書く前に」しておく事が出来るのか、というのが、極めて重要なのです。


別の言い方をするならですね。

前回、「上手く」という意識は曖昧だと言いましたが、「上手く」という言葉には、余りにも多くの意味が含まれ過ぎているのです。(だからこそ曖昧なのです。)

その余りにも多くのものが含まれてしまっている中から、その時点で最も重要な点だけを抽出し、そこに意識を集中する事が大切なのです。

この過程こそが、私が言う「意識の具体化」に他なりません。


「そんな事言われても、どこが重要なのかなんて、分からないよ…」

と思いますよね。


そこで、先生の登場です。

その為にこその先生なのですし、だからこその

「どう教わるか?」

なのですから。


「ちっとも書けない、上達しない。」

という結果には、必ず何らかの原因があるはずです。

その原因を探る事なく結果だけを一喜一憂しているだけでは、結果はいつまでたっても変化しません。

その原因の中で、その時点でのその人にとって、次の一歩の為に最も重要な点を指し示すのが先生の役目です。

にも関わらず、先生の話を馬耳東風なのでは(「無意味」の回参照)、これまたやはり上達など望むべくもないではありませんか。


今から書こうとする一枚(一字、更には一点一画)に対して、(先生からの指摘をもとにしながら)どれだけ自分の意識の密度を高く出来るか?

これこそが、私が言いたい「質」なのです。(以上の理由から、独学がどれ程困難なものであるかという事も分かるでしょう。)


この「質」を出来うる限り高めた上で、その次に初めて問題になるのが、「量」なのです。


先程「何らかの原因」と言いましたが、端的に言えば、それは「質」か「量」か、そのどちらかにある筈です。

しかし殆んどの場合、それは「質」にあると言っても過言ではありません。


「質」を無視したまま「量」だけを増やしてみたところで、そんな「量」には決して結果は伴ってはくれません。

ですから「質」を無視したまま「量」も足らない、という状態なのでは、それこそ結果など見るまでもないでしょう。


つまり、

「仮に『量』を犠牲にする事になったとしても、『質』を上げる努力をすべきだ。」

というのが、私の基本的な考え方なのです。


「質」を上げる為に最も手っ取り早い方法はと言うと、「もっと時間をかける」という事ですね。

この場合の「時間をかける」というのは、「筆を持つ時間(練習時間)を増やす」という意味ではありません。(それは「質」ではなく「量」の問題ですから。)

皆さんの場合、1日の中で筆を持つ為に割く事の出来る時間というのは限られているでしょうし、それ(「量」)を大幅に増やすというのはなかなか現実的に難しいでしょう。

ですから、筆を持つ時間を増やすという事についてはここでは無理に考えないとして、時間の使い方を見直してみるのです。


例えば1日50枚書く人がいたとして、それが1日10枚になってしまったとしても、1枚にかける時間を5倍に増やし、その1枚に対する意識の密度も、それまでの5倍にするつもりで書くのです。

すると、筆を持つ時間の長さは変わらないまま、書く枚数は1/5になってしまうわけですが、只漠然と50枚書いていた時の1枚とは、自ずとその中身が変わってくる筈です。

無闇やたらに50枚書いているより、こうして書く10枚の方が遥かに有益だと思うのですが、如何ですか?


ところがこれ。

私は今、簡単に

「1枚にかける時間を5倍に増やす」

と一口に言いましたが、皆さんの中にはこれを実際にやろうとすると、

「どうすれば今までの5倍も時間がかけられるの?」

と、途方に暮れる人も少なくないと思いますよ。


それはつまり、

「実際に書く前に、注意すべき点について具体的にしっかりと意識しておく。」

という、「意識の密度」を高める過程に慣れていないからであり、今までそれだけ何にも考えずに書いていたという証拠でもあるのです。


「それじゃ、どうしたらいいの?」

と思うかもしれませんが、私がこれまでこのブログのあちこちで書いてきた事こそが、そのヒントなのですから、「どうしたら?」と思った人はもう一度、これまでの記事をじっくり読んで下さい(笑)


さて、今回まで3回に亘り、「質と量」として話してきました。

「先生」という存在の意味を、今回の話に照らし合わせて考えてみれば、それは

「『質』を高める為の手助け」

という役目にこそあると言えるでしょう。


誤解してはいけません。

「質」を高めるのは自分自身であり、先生が高めてくれるのではありません。

何故なら、「質」とはあなた自身の意識の問題なのですから。


もう一度、日頃の自分を思い返してみて下さい。


この話はこれまで。

それではまた。

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2009年02月11日

質と量。その2

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早速前回からの続きです。

以前からの読者の皆さんはよく御存知かと思いますが、

「いくら書いてもダメ」

なのではなく

「いくらも書いていないからダメ」

というのが、この類の話に対する私の基本的なスタンスです(苦笑)


しかしこれだけだと余りに辛口のようなので(苦笑)、もう少し分かりやすく換言すると、

「書というのはあなたが思っている程簡単に上達出来るようなものではないし、あなたが『いくら書いても』などと言っている程度では、実際には『いくら書いても』などと言ううちには入らない。」

という事になるのですが…

どうにも余計に辛辣になってしまいましたね(苦笑)


「だって先生はいかにも簡単そうに書いてみせるから…」

確かに先生は皆さんの目の前でいかにも簡単そうに書いてみせるのでしょう。


「どうしても先生みたいに書けない。」

といった類のセリフもよく聞きます。


ですが、こんなの当たり前ですよ(笑)

先生はその一本の線が「いかにも簡単そうに」引けるようになるまで、皆さんの何百倍も何千倍も何万倍も練習を積み重ねてきているんですから。


これまたこれまで色々な角度から度々話してきましたが、それでもやはりこの部分が皆さんが書を学んでいく上で(実際は書に限った話ではないのですが。)、一番のネックになっているように思うので、敢えてもう一度ここで話してみたいと思います。


当たり前の話ですが、書が上達する為には練習が必要ですよね。

まぁ、厳密にはそれだけではないのですが、ここではそこには触れず、練習についてのみ焦点を当てて考えてみましょう。


練習について考える時、問題となるのが、その「質」と「量」です。(やっとタイトルまで辿り着きました(汗))

「量」については少ないよりも多い方が良いのは言うまでもありませんが、かと言って、皆さんに、

「以前の私のように1日14〜16時間練習する、という日々をひたすら続けなさい。」

というのでは余りに非現実的ですし(笑)、何の解決にもならないでしょう。

皆さんそれぞれがそれぞれの書との関わり方の中で、自分のペースで筆を持てば良いのですから、この点について私がとやかく言うつもりはありません。


本当に問題なのは「質」の方です。


練習の「質」と言うと、皆さんとかく

「何を教わるか?」

という意味での「質」を考えてしまいがちですが、実はそんな事よりも

「どう教わるか?」

の方が遥かに大切です。

にも関わらず、それについて省ようとする人はあまりいません。


このブログでこれまで色々書いてきた中で、この点に関する内容が一番多かったかもしれませんし、普段書を教えている立場の私からすると、学ぶ側の皆さんに最も伝えたいと思っている事の一つでもあるのですが、なかなか本当の意味では理解してもらえないようです。


「ちっとも書けない」

と嘆く前に、

「何故書けないのか?」

について、具体的な問題点が何処にあるのかを本当に本気で考える人が一体どれだけいるでしょうか。


「上手くならない」

と愚痴をこぼす前に、

「次の一枚を書く時に注意すべき事」

について、次の一枚を「書く前に」、今自分の書いたものと手本とを、それこそ穴が空く程にまで見比べてみる人が一体どれだけいるでしょうか。


いないんですよ、殆んど(苦笑)

だから、書けるようにならないのです。


私はこれまでこのブログで言い続けてきました。

「筆を持つ以前の意識」

の大切さを。


「ん〜、何だか上手くいなかいなぁ…」

といってそのまま次の一枚を書いたとするならば、私がいつも言うとおり、その結果など見るまでもありません。

先の一枚と何一つ変わらないものが出来上がるまでの事です。

それなのに、その事に気付いていない人の何と多い事か。


考えてもみて下さい。

そもそも「上手く」ってどんなものですか?


「先生の手本と同じような字」

と思ったあなた。

確かにそれも答の一つなんでしょうが、ちょっと違うんです。


ここからちょっと話がややこしくなりそうなので、続きは次回にしましょう。

それではまた。

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「一言書いてみたいんだけど、みんなに読まれてしまうコメントに書くのは何だか気が引ける・・・」

という方や、

「何だか下手な事を書いたら説教されそう・・・」

という方、また、通信添削について御質問のある方は、下記のアドレスまで御意見御質問をお送り下さい。

誹謗中傷を目的としたような常識に反するもの以外、お返事させていただきます。

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