2007年11月26日

空間交錯

これまでの記事の一覧はこちらへ
記事の一覧です

通信添削についてはこちらへ
通信添削について』

メールによる御質問はこちらのアドレスへ
nonbirishodo@mail.goo.ne.jp

----------------------------------------------------------

今回の試食は黄庭堅の『李白詩巻』です。

もっと長く『李白憶旧遊詩巻』と呼ばれる事の方が多いようですが、ここでは短く『李白詩巻』としておきます。


この書、私が中国書道史上、草書で書かれたものの中では最も好きな書です。

ところが悲しい事に未だに実物は未見・・・(悲)

確か、京都の藤井斉成会有鄰館の収蔵で、もうず〜〜〜っと長い間、「いつか必ず見たい!!」と思っているのですが、なかなかタイミングが合いません(涙)


さて、今回採り上げた部分を見て下さい。

空間交錯その1

初学者の場合、草書と言っても王羲之や孫過庭などを中心に学び始める場合が多いと思うので、この書をいきなり見せられても、少々戸惑うかもしれませんが、せっかくの「試食」ですから、最後までお付き合い下さいね。


今回の試食のポイントはどこかというと・・・

ここです。

空間交錯その2

「鞍金」と書いてあるのですが、この2文字、実はとても大きなポイントが隠れています。


唐の張旭あたりから急速に強まった連綿線による文字間の連続性は、懐素に至り、連綿線と実画との質的な差異の消失という形にまで進められます。

これは簡単に言えば、連綿線と実画とを同じ線質で書き続けてしまうという事です。

その分、見る側の視覚的な連続性が更に強まった事は言うまでもありませんが、それ以上に、それを書く側の意識上の連続性も極めて強くなりました。

この点は懐素の『自叙帖』を見れば、一目瞭然でしょう。

人々は彼らの書を、それまでの書と比較して「狂草」と呼びました。

狂草の名を欲しいままにした2人でしたが、その2人ですら、越えられなかった壁があります。


それは何か?



それぞれの文字が持っている空間です。


私は教室でこれを

「その文字が持っている縄張り」

という言葉で説明していますが、文字の周りにはそれぞれ、

「最低限、ここから内側は自分の空間。だから入ってくるな。」

という空間の範囲があります。


妙な表現で申し訳ありません。

これはあくまで感覚的なものなので、なかなか言葉では説明しにくいのですが、書体の違いに限らず、必ずそれは存在します。


そしてその空間の壁を突き破ったのが、今回取り上げた黄庭堅なのです。


同じ部分に色を付けてみました。

空間交錯その3

青い部分が問題の部分です。

ここには「金」の1画目が書かれていますが、この空間はそれまでの書の感覚では明らかに「鞍」の空間です。

ところがその「鞍」の空間に、「金」が深く入り込んでいるのです。


私はこれを

「文字の空間交錯」

と呼んでいます。


このような空間交錯は張旭や懐素には見られないものでした。

張旭や懐素の狂草がどれ程に文字間の連続性を強めていたと言っても、文字毎の空間はあくまでも不可侵だったのです。

その意味では懐素の連綿ですら、文字毎の空間を連結させる役目を持っていたに過ぎません。


ところがここではその壁は完全に取り除かれてしまっています。


「鞍金」は2文字でありながら、あたかも1文字であるかのような意識で書かれ、その結果、あたかも1文字であるかのような姿を見せる事になったのです。


このような空間交錯は、明末清初の書を知っている人にとっては、

「それで?」

といった感じで、今更それ程驚くべき事ではないのかもしれませんが、書道史を考えた時、この書の持っている革新性は極めて重要です。


何故なら黄庭堅の書を境として、文字空間に対する認識が大きく変化していく事になるからです。


彼の書無しには明末清初の連綿草が導き出される事などなかった、とまでは言いませんが、明末清初の連綿草が、彼がここで越えた壁の向こう側でこそ実現可能となったのも事実でしょう。


これは書に限った話ではありませんが、ある一つの革新的な表現方法が実現された時、その事自体が重要な意味を持つのは勿論ですが、そのような革新的な表現を受け入れるだけの素地がその時代に既に用意されていた、という点も同じくらい重要です。

この点を理解しておかないと、革新性を目の前にした時に、どこまでが時代的必然で、どこからが個人的能力による飛躍なのかが分からなくなってしまいます。


ですから、

「明末清初だけ知っていればいいや」

というのでは余りに短絡的だと思うのです。


尤も、書を何年もやっていても、先生からもらった手本しか知らず、黄庭堅どころか明末清初すら

「何それ?」

という人も少なくないのかもしれませんが・・・


おっと危ない!

またいつもの愚痴が始まってしまいそうなので(苦笑)

今回はここまでにしましょう。

それではまた。


あ!

一つだけ、言い忘れました。

因みに日本の書ではどうだったかというと、日本人は中国人とは全く異質の感覚によって、文字毎の空間の壁を溶解させてしまいました。

言うまでもなく、仮名による表現です。

これについての詳細は、またいつの日にか。


それではまた。

----------------------------------------------------------

初めてこのブログを読まれた方へ。

いらっしゃいませ。

あれこれ思いつくままに書いているので、書道独特の専門用語や人名などの固有名詞に関しては、その都度解説を付ける事はしていません。

初心者の方や学び始める以前の方には難解な部分も多かったかもしれませんが、お許し下さい。


「一言書いてみたいんだけど、みんなに読まれてしまうコメントに書くのは何だか気が引ける・・・」

という方や、

「何だか下手な事を書いたら説教されそう・・・」

という方、また、通信添削について御質問のある方は、下記のアドレスまで御意見御質問をお送り下さい。

誹謗中傷を目的としたような常識に反するもの以外、お返事させていただきます。

nonbirishodo@mail.goo.ne.jp


定期的にアップ出来ているわけではありませんが(正直言ってサボりがちです)、よろしかったらまた覗きにいらして下さい。

ラベル:臨書 書道
posted by 華亭 at 13:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 試食 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック