2007年07月02日

理屈って本当にいらないの?その3

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「理屈って本当にいらないの?」として始めた話を中途半端にしたまま、またもやいつもの悪い癖が出て何日も過ぎてしまいました(汗)

続きを待っていた方、ごめんなさい。

この話題も今回で3回目。

何とか今回で終わらせたいのですが・・・

頑張ります(汗)


前回は

「理屈は軽んじてはいけないが、諸刃の剣でもある」

というところまででした。

理屈が諸刃の剣とはどういう意味なのでしょうか?


私が皆さんにお話する理屈というのは、実は

「よく聞いて考えてみると、何も特別な事ではなく、当たり前の事ばかり」

なのですが、それでもその「当たり前」を改めて理屈として目の前に並べられて説明されると、

「なるほどねぇ・・・」

と思われる方も少なくないようです。


私としてみれば、ある意味では教室に通われている皆さんに目から鱗を落としてもらうのが仕事ですから、

「なるほどねぇ・・・」

と思っていただける事自体は嬉しいのですが、実はここにこそ危険な落とし穴が待っていたりするのです。


先ずは一つ目の落とし穴について。


それこそ当たり前の話ですが、理屈というのはどこまでいっても理屈なのであって、それだけでは意味を成しません。


唐突ですが次のような例えで考えてみましょう。

「体脂肪を燃焼させる為には有酸素運動が有効である。何故なら有酸素運動を行う事によって〜〜〜。」

という理屈をあなたが聞いたとしましょう。

「なるほどねぇ・・・」

と、どれ程思ってみたところで、それだけではあなたの体脂肪は全く燃焼されません。

当たり前ですね。


私が話す理屈も同様です。

それを聞いて

「なるほどねぇ・・・」

と感心しているだけでは何の役にも立ちません。


ところが、

「なるほどねぇ・・・」

と深く感心した人ほど、その「なるほど」の衝撃に幻惑されて、とても役に立ったような、多くのものを学んだような気分に浸ってしまい、それを実践に移すことなく満足してしまいがちなのです。

役に立ったような気分も多くのものを学んだような気分も、気分だけならそんなものはただの錯覚です。

いくら「なるほど」と思ってみたところで、それはあくまで理屈が分かったというだけの話なのであって、書そのものが分かったわけではないのです。

それを実践に移してこそ、初めて意味があるのです。

このブログを読んで下さっている皆さんの中にも、錯覚している人、いませんか?

これでは前へと進むための手がかりになるはずの理屈が、却って足かせとなってしまいますよね。



さて、次の落とし穴。


これまで何度も繰り返してきたとおり、私の理屈というのは、最大公約数としての要素を理屈として再構築したものに過ぎません。

ですから当然の事ながら、基本的な部分を理解する為には有用ですが、それで書の全てについて網羅出来るわけではありません。


ところが、私の理屈を理解し、それを実践に移す事が出来たところで、先に進めなくなってしまう人がいます。


これは真面目で几帳面な人ほど陥りやすい落とし穴なのですが、真面目に私の理屈に耳を傾け、真面目にそれを実践に移し、真面目に練習を積み重ねた結果、ある程度は私の理屈どおりに書く事は出来るようになるのですが、理屈以上の部分になると、全く手も足も出なくなってしまうのです。


つまり、絶対にあってはならないはずの

「理屈ありき」

に陥ってしまうのです。

これでは先の例とは別の症状ながら、やはり前へと進む為の手がかりどころか足かせにしかなりません。


私の理屈が最大公約数としての要素を基にしているのは、それ以上の部分への応用を少しでも容易にする為に他なりません。

それ以上の部分までをも無理に理屈に取り込もうとすればするほど、その状況毎の個別の対応にまで話が及んでしまいますから、話が際限無しに複雑になってしまい、「理屈のための理屈」のようになってしまいます。

こうなるともはや説明の為の理屈ではありません。


ところがこの落とし穴に陥ってしまった人は、どこまでいっても理屈による説明を求めようとします。

「理屈ありき」になってしまっているので、理屈による説明を止められてしまうと、途端に途方に暮れてしまうからです。


しかも更に困った事に、こういう人の場合、どこまでも理屈に則って書いていますから、自分の書いたものが理屈どおりに書けているのかどうかを、理屈に照らし合わせて自分勝手に自己判断しようとします。

ここでの自己判断が的確であるのなら、まだ良いのですが、そもそも的確な判断が出来るようなら理屈になど頼らなくとも書けている筈ですので、この場合の自己判断は十中八九が見当違いというのが現実です。

ところがこういう人は、その見当違いの自己判断に基づき

「私は理屈どおりに書く事が出来ている。」

と思い込みます。

そしてその思い込みがそのうちに

「私は書を理解しているんだ。」

というとんでもない思い違いにまで及ぶ事になるのです(苦笑)


これまた先の例とは症状が違いますが、仮に理屈を正しく理解する事が出来たとして、それを正しく実践出来たとしても、それはあくまで理屈が分かって理屈どおりに書けたというだけの話なのであって、書そのものが分かったわけではありません。


こういう人の場合、真面目で几帳面であると同時にプライドが高いことが多いので、こうなってしまった状態で

「思い違いをしてますよ。」

といくら説明しても、もはや耳を貸そうとはしてくれません。


尤も、本人にはそのような自覚は全くと言ってよい程に無いのでしょうが・・・


あれ?

いつの間にか何だか愚痴っぽくなってしまいましたね(苦笑)



理屈というのは頭で理解しやすい分だけ、頭だけでの理解(思い違い)が一人歩きを始めやすいという危険を孕んでいます。

ですから「諸刃の剣」なのです。



理屈・・・

怖いものでしょ。


皆さんは大丈夫ですか?


今回はここまで。

次回は何の話にしましょうか。

それではまた。

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初めてこのブログを読まれた方へ。

いらっしゃいませ。

あれこれ思いつくままに書いているので、書道独特の専門用語や人名などの固有名詞に関しては、その都度解説を付ける事はしていません。

初心者の方や学び始める以前の方には難解な部分も多かったかもしれませんが、お許し下さい。


「一言書いてみたいんだけど、みんなに読まれてしまうコメントに書くのは何だか気が引ける・・・」

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定期的にアップ出来ているわけではありませんが(正直言ってサボりがちです)、よろしかったらまた覗きにいらして下さい。
ラベル:書道
posted by 華亭 at 23:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 考え方 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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